将棋マガジン1994年3月号、斉藤眞奈美さんの「オンナの直感インタビュー 行方尚史四段の巻」より。
「将棋」に似合う歌は?と聞くと、♪吹けば飛ぶよな~、と、私の周りの人間は、たいてい、まずこの歌を口ずさみますね。将棋に縁のなかった私も、やっぱり将棋には演歌が似合う!と勝手に信じておりました。でも先日、中山美穂ちゃんのバックでベースを弾いている、私のいとこの斎藤昌人が、実は大の将棋ファンだったと知り、案外、将棋と洋楽は相性がいいのかしらん、なんて、考えを変えつつありました。でもその程度の認識じゃ甘かったみたいね。昨年10月1日に晴れてプロになった、行方尚史四段は1993年を振り返り、「四段になれたことも良かったけれど、それ以上に(ロックミュージシャンの)小沢健二の曲との出会いは大きかった」なんて、言ってくれちゃったのだから……。
行方さんは、今年成人式を迎えた20歳の青年。本人は「年より老けてますから」なんて照れ笑いするけれど、失礼ながら、私には、まだまだ少年という言葉が似合うように思えました。線が細くて華奢な感じに見えるからかしら。ラフな分け目のサラサラヘアのせいかしら。
さて、問題発言のロックとの出会いなのだけれど、昔は、ブルーカラーの男臭さをひっさげたザ・ブルーハーツが好きだったらしい。ところが去年、何かの雑誌で目にした小沢健二の詞にショックを受け、作品を聞いてみたら、さらにガーンと衝撃と影響を受けてしまったのでした。
ところで、この小沢健二ですが、元フリッパーズ・ギターといえば思い出される方も多いでしょう。フリッパーズ・ギターは小沢健二と小山田圭吾の2人のユニットのロックグループで、10代を中心にかなり人気がありました。でも、1992年の末だったと思うけれど、解散してしまい、今はそれぞれソロ活動をしています。(小山田くんの方は、コーネリアスという名に改名しちゃってます)
「前にフリッパーズギターをMTVというテレビ番組で見たとき、英語の歌詞だったこともあって、なんか、スカしてるみたいで嫌だった。その頃は、カッコ悪いことがカッコいいんだと、なんか、僕自身、冷めた目で見ていたんです。でも、今は、やっぱりカッコいいものは、カッコいいと素直に思えちゃって」
そんな行方さんの言葉の端々に、結構こだわり人間であることが、見え隠れします。
去年あたり、10代の若者の心の代弁者のように尾崎豊や森田童子、山田かまちなんかにスポットが当たったけれど、考えてみれば、これらの人は、みんなもう死んじゃったか引退しちゃった人。現実の今の20歳前後の若者のハートを捕えているミュージシャンとして、小沢健二が受け入れられていることは、私も噂で知ってました。あ、といってもまだ一部でだけど。その人気の秘密は詞にあるらしい。でも、彼の詞は結構クセがあって難解なのよ。行方さんも好きだと言っていた『犬は吠えるがキャラバンは進む』というアルバムのこのタイトルは、本人の書いたライナーノートによれば、なんでもアラビアの諺からとったとかで、もう入り口からしてクセがあるのです。けれどもそのことについて、「そんなことないと思うけど。彼の詞は、メロディーと一体感があるんですよね」と行方さん。へえ、意外。将棋は理詰めの世界だけど、行方さんは音楽を皮膚感覚で捕らえているみたいね。
「四段になったこと」以上に小沢健二との出会いが、自分にとって大きかったと言い切ってしまうほどの影響って、どんなものなのか、とても興味のあるところだけど、どうやらそんなに簡単に言葉にできるような代物ではないみたい。でも、行方さんの感受性の豊かさだけは伝わってきました。
ライブは年に1回くらいしか行かないそうだけど、渋谷辺りのレコード屋には、ずいぶん通っているみたいで、ここ1~2ヵ月でCDを20枚ぐらい買っちゃったとか。
「最近は音楽ばかり聴いていて、ウォークマンの聞き過ぎで、耳が鳴っちゃうんですよ(笑い)」
そんな音楽大好き人間の行方さんだけれど、テレビは見ないらしい。というより、テレビを持っていないのだ。前回のインタビューでは、ものすごーく驚いてしまった私だけれど、棋士はテレビを持ていない人が多いという予備知識があるから、今回はそんなに簡単に驚いたりしないもんね。……の、はずだったのだけれど……。
「12歳で東京で独り暮らしを始めた時は、テレビを持ってたんですけど、だんだん見なくなっちゃって」
えーっ!12歳で独り暮らし!?それってテレビがあるないどころの話じゃ、ないんじゃないの?
「中学に上がる解き、今、東京に出なくちゃだめだって。親にごり押ししたんですよね。で、最初は賄い付きの所に住んだけど、中学2年から普通のアパートで独り暮らししてました」
ちょっと待てよ、12歳の時、私はどんなことを考えてたかしら。あんまり大したこと考えてなかった気がするなあ。それにしても、ご両親は心配なさったでしょうね。
「父より母がね」
そりゃ、当然でしょう。
ふと、その時、去年のNHK朝の連続テレビ小説『ええにょぼ』のワンシーンが思い出された。戸田菜穂扮する主人公の弟が、将棋のプロになりたいのだけれど、板東英二扮する父親が大反対する。でも、その父親がガンにかかり死期を悟った時、やっと許すのよね。行方さんも、そんな父親の反対かなんかあったんじゃないのかしら。
「よく覚えてないけど、小学校4年で指し始めて、大会で勝ったりしてたから、周りが自然とそういう雰囲気だったし。青森って将棋が盛んなんですけど、そのわりにプロが出なかったから」
あ……。そうか。なんだか、目からうろこが落ちた気分。プロになれるような人は、ちっちゃい時から強いんだもの、周りの方がほっとかないか。
「それにね、青森の中学は、みんな坊主頭にしなくちゃなんなくて。それも嫌で。なんてね、それが東京に出てきた一番の理由だったりして(笑い)」
なんて笑うところなど、茶目っけたっぷり。
でも、肝心のその東京で、あまり学校へは行かなかったようですね。4時間目くらいから学校へ行って、まるで「給食を食べに行く」ような生活で、体も壊し、喘息にもなってしまった。「自己管理ができなかった」と本人は反省しながら言うけれど、でもたったの12歳なんだもの、難しいですよね。
「でも今にして考えれば、まともに行っとけば良かったと思いますよ。行けばそれなりに楽しかったと思うし。中学卒業して一応高校へは進学したけど3ヵ月でやめちゃって」
で、それから3年間、女の子と知り合うチャンスがなくなってしまったのだそう。
今となっては、それがイチバンの心残り?
「どれくらいの間、女の子と接点がなかったのか、ちょっと計算してみようと思ったりしたけど、バカみたいでやめちゃいました(笑い)」
去年、気持ちが通いあっていた女の子がいたけれど、すれちがってしまったらしく、そこらへんについては、ちょっぴり口が重くなってしまいました。
「でも、女の子とつきあえたことも、1993年の良かったことのひとつですね」
そうそう、新しく年も変わるし、今年は四段として、新しい展開もあるでしょうし。
「そう、去年の正月は、三段リーグでも勝てなくなって、つらくって。逃げるように青森に帰ってましたからね。目標より遅れたけれど、20歳前に四段になれて良かったですよ。でも、もうずいぶん前のような気がするなあ」
本人いわく、四段になってから、少し緊張感がなくなってしまったそうで、
「三段の時は、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』をいつも鞄に入れて、気合い入れてたんだけど」
そして、四段になって気が抜けてだめになった人も多いから、もう少ししっかりしなくちゃ、とつぶやきました。
さて、20歳になって迎えた1994年ですが、これからやってみたいことは?
「10代でやり残した事が多いんで。まずは将棋の勉強。それから、この先何十年も将棋を指していくんだから、体づくり。子供のころは50メートルくらい泳げたのに、今全然だめだから、25メートルぐらい泳げるようになりたいな」
そして、子供の頃将棋のためにやめてしまった、書道もまた再開したとか。仕事上でも必要ですからね。
「それから英語も勉強しようかと思っていて」
なぜなら、英語ができたら英語の歌も楽に聞けるからですって。
「それに、これからの将棋はきっと、海外にもうって出なくちゃだめでしょ?」
とはいえ、本人いわく、三日坊主なのがネックなのだとか。そこらへんが、熾烈な戦いを勝ち抜いて四段になったとは思えない、少年っぽさの残るところで、この先いろいろなことをやってのけてくれそうな予感を感じさせてくれて、話を聞いてるこちらもワクワクしちゃうのでした。
今年もまだまだ始まったばかり。何回三日坊主をやっても、まだまだやり直せるから(?)、感受性の豊かさを大切にして、マイペースでがんばってください。
(以下略)
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この記事を書いた斉藤眞奈美さんは、「女性セブン」「Can-Cam」「With」などの女性雑誌を中心に執筆を行っていた。
なるほど、将棋以外のことにフォーカスをしており、とても新鮮な感じがする。
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行方尚史九段は、12歳で上京ということもあり、非常に苦しい思いをしながらの奨励会時代だった。
→行方尚史三段(当時)「もし奨励会を退会するようなことになれば、ぼくは死ぬ以外に無い」
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「四段になれたことも良かったけれど、それ以上に小沢健二の曲との出会いは大きかった」
行方四段がインタビューを盛り上げるためにこのように話したという可能性もあるが、行方四段は「四段昇段はあくまで通過点、目標はもっともっと上」と思っていただろうから、本音である可能性ももちろん高い。
行方四段(当時)は、第13回三段リーグのラス前、1993年8月20日に四段昇段を決めている。
一方、小沢健二さんのソロデビューシングル『天気読み』は1993年7月21日に発売、9月29日にアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』がリリースされている。
四段昇段を決めた日と小沢健二さんの曲と出会った日は、かなり接近していたことがわかる。
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2001年に行方六段(当時)が書いた「昇級者喜びの声」にも小沢健二さんの名前が登場する。
→行方尚史六段(当時)「始発を待つあいだ東京体育館のベンチで泣いた」
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「彼の詞は、メロディーと一体感があるんですよね」
小沢健二さんのソロデビューシングル『天気読み』の歌詞を見てみると、想像を絶するほど難解だが、歌詞(歌)が演奏の中の一つの楽器だと思って聴いてみると、たしかに一体感を感じることができる。
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「三段の時は、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』をいつも鞄に入れて、気合い入れてたんだけど」
『コインロッカーベイビーズ』は読んだことがないが、読み進めるのが結構難しい本であるようだ。
難解さという点で、小沢健二さんの詞と通じるものがあるのかもしれない。
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「青森の中学は、みんな坊主頭にしなくちゃなんなくて。それも嫌で。なんてね、それが東京に出てきた一番の理由だったりして(笑い)」
Wikipediaでの情報によると、1990年10月の段階で、青森市内の中学校20校中7校が丸刈り校則を実施していたようだ。
行方九段は弘前市だったが、12歳だった1975年なら、青森県内の中学校全てが丸刈り校則実施だったとしても不思議ではない。
そもそも1990年10月時点でさえ、福島市と鹿児島市では全中学校で丸刈り校則を実施している。
私が生まれた仙台市では昔から市立中学には丸刈り校則が全くなかったので、日本全国そのようなものだ思っていたのだが、他県は全然違う状況であったことを初めて知った。
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「少年っぽさの残るところで、この先いろいろなことをやってのけてくれそうな予感を感じさせてくれて、話を聞いてるこちらもワクワクしちゃうのでした」
この頃の行方四段に贈る言葉としてはピッタリだと思う。