羽生善治六冠(当時)の口ぐせ、谷川浩司王将(当時)の口ぐせ

近代将棋1995年5月号、明石覚さんの「好きな言葉、巧みな話術、際立つ仕草」より。

将棋世界1994年12月号より、撮影は中野英伴さん。

「言葉は文化です。言葉は生き物です」を冒頭のキャッチフレースとしたテレビ番組があったが、人には無意識に使っている好きな言葉がある。そして、そのひとつひとつの言葉が数珠のようにつながって意味をなす話には、人それぞれに個性がある。身振り手振りなど仕草ひとつをとっても人それぞれだ。それは無意識からの新しいシグナルとして、ボディーランゲージを生んだ。

(中略)

 さて、こうした言葉、会話、仕草などの面から棋士たちを浮き彫りにしてみよう。今回は棋界の頂点を極める羽生六冠王と谷川王将にスポットをあたる。私が羽生にインタビューした経験、またテレビなどでの羽生語録を集めてみると、目立った傾向がある。

「えっ」「あっ」「まあ」など短く切れる言葉がまず多いことに気付く。これは頻繁にインタビューを受けていることにもよるだろう。「まあ」と言ってリズムを取るのだ。佐藤康光前竜王も「まあ」が多い。あまり使うと耳障りな副詞に聞こえるが、適当に使っていればいいだろう。「○○っぽい」「○○系」という表現も目立つ。「詰みっぽいですね」「焼き魚系で好きなのは、そうですね……」というように。これは、まず物事を感覚でとらえ、ほぼ同時に類型化していることを意味する。パッと見てパッと答がわかる公文式にも通じる。ある種のパターン思考が働いているのだ。

 また時として「絶対にないです」「いえ、まったく」という強い口調のこともある。誤解を招くことを避けたり、誤った考えを否定する時に用いている。

 谷川がよく使うのは「さすがに」という副詞である。大判解説などで「これはさすがに勝てないでしょう」などと言う。だが、この「さすがに」はプロ、アマを問わず、将棋の検討の時などに、なぜか頻繁に使われ、将棋用語のように思われるほどだ。

 実生活は知らぬが、将棋に関する限り谷川の使う言葉に際立った特徴はないが、話の内容が面白い。一見、堅そうに見えて、その発言はユーモアとウィットに富んでいる。将棋の日を記念したイベントゲストとして、お笑いタレントの神吉宏充五段を相手に、「神吉先生は練習将棋になると強い」と、ジャブを入れて会場を笑いのウズに包み込んだ。谷川は結構、皮肉屋でもある。だが自分で笑いを誘い、自分でも笑っているから、やっぱり将棋のプロだ。お笑いのプロは笑いを誘いながら、自分はすましている。タイトル戦の終了後をはじめ、ここぞという時の談話に、谷川語録は光彩を放つ。

「我々が苦しむことがファンを喜ばせることだ」(1990年、王位防衛直後)

「大山先生に置き土産をいただきました」(1992年、大山名人への追悼文)

 自らの心境を巧みに表現する谷川は棋界の名コピーライターである。

 谷川語録がコピーライター型なら、羽生語録は問題提起型である。羽生はサービス精神をもってずばり物事の核心にふれる。その言動は棋界に一石を投じ、将棋ファンの心を揺さぶる。

 成人の日、NHKドキュメント番組の「対決」の中で、羽生はこう語った。

「いろいろな人生の経験が直接、反映されることはあり得ない。将棋が強くなるのには、将棋の勉強を続けること。それ以外の何物でもない」

 これを聞いた40代のベテラン棋士が、ある酒席で憤りをあらわにした。

「我々は修行時代から、拭き掃除をし師匠をあんまし、人間を磨くことが、いずれは棋士としての大成に結びつくと教わったんだ。それを真っ向から否定されたんじゃ我々の立つ瀬がない」

 これに限らず、羽生の言動には、高度成長時代、家族のために汗水流して働いてきた中高年の神経を逆なでするような要素がある。それは彼らが最も大切にしてきた人生訓を無視しているように聞こえるからだが、中高年には羽生の圧倒的な白星の前に「この若僧めが」と叫べないジレンマがあり、七冠目前の今となっては自分のシワの数を数えるよりないのだ。

 これが若者にとっては正反対である。痛快で清々しい羽生語録。時代をリードする羽生名人は同世代や10代の将棋ファンにとってのアイドルなのである。

 さて次は仕草、ボディランゲージである。将棋はもとより指で駒を操るゲームなのだが、折にふれて微妙に動く羽生の指先からは、何とも妖し気なオーラが発せられている。それにしびれる女性ファンもいるだろう。インタビューを受ける時など、羽生の右手、人差し指と中指は微妙に動く。そのピンと伸ばした2本の指を、アゴから口元にやって、時折その指先が微妙に震える。

 意表を突かれた質問の時などはそうなる。ひとたび言葉が口を突くと、話が淀みなく続き、その間、開かれた5本の指が、何かを示唆するように上下に動く。

 こうしたタイプの棋士は羽生以外に見たことがない。羽生のような応答はミュージシャン、イラストレーター、画家などのクリエイターに多い。

 松田聖子や近藤真彦などの楽曲を作詞し、天才作詞家として名をはせた松本隆は、詞ができるまでの過程を語る時など羽生とほぼ同様なポーズを取った。

 遠くを見つめるような瞳で、何かをイメージしながら、現場の雰囲気を再現させようとするのだ。松本隆によると、

「作詞というのは無数にある言葉の破片を集め、その中で無駄なモノをナイフで削ぎ落としていくような作業であり、かなりの根気がいる」

 将棋も同様だ。膨大な読み、指し手の中から最善手を求めようとする。こうした過程において羽生マジックは生まれる。

 羽生は空間認識力に秀でた右脳派といわれているが、脳内で発生する電気は人間の身体に向けて伝令を発し、それを受けて各部位が自然に反応する。その反応が神秘的なのだ。

 一方、論理的能力に秀でた左脳派の仕草は対照的である。彼らの資質からして政治家や評論家タイプが多いが、何らかの論陣を張って人を説得しようとする時の仕草は豪快である。両手を大きく使い、右手を押さえ付けるように上下に振って、自己主張する。そのオーバーアクションが人をぐいぐいと引き込むのだ。

 将棋界の評論家タイプといえば、不動産評論で知られる田中寅彦と、パソコン評論の武者野勝巳六段が双璧である。ともに頭脳明晰である上に、堂々たる体躯、口髭。射るような田中の眼光、カッと見開いた武者野のどんぐりまなこも個性的で人を引き付けるのだ。身振り手振りを交えた田中、武者野の評論は明解である。定かではないが、二人は主に左脳で将棋に関する思考をしているような気がする。同じ左脳派といわれる谷川に、派手なアクションはない。谷川には住職の息子というだけあって、常に”静”の雰囲気が漂う。そして羽生同様に指先がセクシーであり、光速流ダンディズムの原点は指先に凝縮されているといっても過言ではない。

 対局の朝。石畳を敷きつめた日本庭園に、しとしとと雨が降る。谷川は広げた雨傘の柄を中指、薬指、小指の3本で持ち、その上に三角形を作るように人差し指と親指をそえる。こんなスマートな手つきでファインダーに収まる棋士もおるまい。

 対局に際しては、パチパチと扇子を開閉させる時の指先、長考の合間、サッとメタルフレームにふれた時の指先に、谷川ならではの色香が漂う。

 日本古来からの色香とは、衣をまとって全身を隠している時に、風が舞って、白足袋と着物の間から見えた足首の白さとか、着物からスッと出た二の腕の白さに感じるものであろう。ホテルや旅館の日本間におき、和服姿で聖なる格闘を演じる棋士こそ、女性の目から見れば色香漂う究極の美男子ではないだろうか。

 王将戦七番勝負はついに最終局になだれ込んだ。夢の七冠制覇をかける羽生善治に、史上最年少名人の誇り高き谷川浩司。その対局場へは毎局のように若い女性ファンが顔を出し、局後の検討を遠くから見つめている光景がいい。

 彼女たちは二人の和服姿に、二の腕の白さに、そして妖しく動く指先に、闘う男の色香を感じ取っているのだろうか。

将棋世界1994年12月号より、撮影は中野英伴さん。

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口癖は、年を経るごとに変わってくる場合もあるので、現在でも羽生善治九段が「えっ」「あっ」「まあ」「○○っぽい」「○○系」を、谷川浩司九段が「さすがに」を、多用しているかどうかは調べてみないと何とも言えない。

ちなみに、羽生九段は感想戦では、「ああ、そうか」が結構多いと思う。「けっこうそうか」というバージョンもある。「んんっ」もある。

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「自らの心境を巧みに表現する谷川は棋界の名コピーライターである」

たしかに谷川九段には、例えば、

  • 「1年間、名人位を預からせていただきます」
  • 「昨年、名人位を獲得した時は、歴代名人の中でも、一番弱かったと思う。今回防衛して、ようやく『並の名人』である。これからは、強い名人、と言われるよう、頑張りたい」
  • 「棋士というのはよく負ける職業なのです」
  • 「感覚を破壊された」

のような、そのまま広告のコピーになりそうな言葉が多い。

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「作詞というのは無数にある言葉の破片を集め、その中で無駄なモノをナイフで削ぎ落としていくような作業であり、かなりの根気がいる」

作詞家の松本隆さんは、数え切れないほどのヒット曲を生んだ作詞家。作曲家の筒美京平さんと組んだ曲は、個人的には神の領域に近いと思っている。

この松本隆さんの作詞の過程は、たしかに、プロの棋士の読みの過程と似ている。

将棋と芸術が相通じる部分と言えるかもしれない。

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「彼女たちは二人の和服姿に、二の腕の白さに、そして妖しく動く指先に、闘う男の色香を感じ取っているのだろうか」

このような部分にも魅力を感じてもらえるのは、とても有り難いことだ。

将棋や棋士を好きになるきっかけの多様性は、いくらあっても良いと思う。