内藤國雄九段「普通の棋士は、対局が終わると目が充血するものだが、羽生君の目は美しいまでに澄んでいる。なぜあんなに澄んだ目をしているのか」

NHK将棋講座1996年8月号、畠山直毅さんの「羽生七冠王に挑んだ挑戦者たち」より。

将棋世界1996年6月号より、撮影は中野英伴さん。

将棋世界1996年6月号より、撮影は中野英伴さん。

 名人戦が終わった。「最強の挑戦者」と目された森内俊之八段は、1勝4敗、中盤の形勢だけなら、逆に4勝1敗でもおかしくはなかった。

 第5局の直後、羽生七冠王は自身の劣勢ぶりを素直に吐露している。

「5局続けて苦しい将棋でした。きょうの一局がいちばんひどかった。1、2局目も黒星になってもおかしくなかったですし……」

 また、名人挑戦者・森内の印象をこうも語っている。

「なかなか簡単に勝たせてくれないし、序盤をかなり研究している。かなり意識を高くして臨まないと、やられてしまうと感じました」

 森内の序盤~中盤の構想は、羽生が舌を巻くほど鮮やかだったわけだ。だが、いざ終わってみれば4勝1敗の将棋が、1勝4敗になっていた。羽生のタイトル戦は、形勢と星が一致しないケースがとにかく多い。

 この差は、いったい何なのか?

 羽生七冠達成後の名人戦を一区切りと考えて、この疑問の答えを僕なりにまとめておこう。

1.技術

 羽生の終盤の決定力は、歴代棋士をすべて合わせても1、2を争う存在だろう。競馬でいうなら、歴代最強馬のシンボリルドルフ。中盤に多少のリードを許しても、ゴール前で一気に差しきる破壊力を持っている。

 しかも羽生は緩急自在のスピードで、相手を翻弄する能力にも長けている。序盤にリードを奪えば並ぶ余裕を与えずに逃げ切るミホノブルボン型の佐藤康光八段、一瞬の切れ味でゴボウ抜きするミスターシービー型の森雞二九段、スタミナ勝負の持久戦に持ち込んで競り合いを制するメジロマックイーン型の森内……。なんとも個性的な各挑戦者は、この「自在の羽生ペース」にそれぞれの持ち味を封殺された。

 まあ、羽生の技術については、いまさら書く必要もないのだが。

2.心理

 高い技術に裏付けされた羽生への信頼感、つまり「羽生ブランド」が対局相手に無言のプレッシャーを与え続けている。

 こうした「相手がめっぽう強い」という無言の圧力は、僕のような素人将棋でも実感できる。ただ、プロ将棋の場合「相手が自滅して負けた」という対局結果はすぐに棋界を駆け巡り、さらに揺るぎのないブランドへ変貌してゆく。このブランドの威力は半端じゃあない。野球でいうなら「もうあのバッターに通用するコースも球種もない」と、全員のピッチャーに思い込ませるほどの威力があるだろう。

3.体力

 過酷なタイトル戦を勝ち抜く羽生の強靭な体力。そのエネルギー源は「将棋が好きで好きでたまらない」という情熱に尽きると僕は思う。

「普通の棋士は、対局が終わると目が充血するものだが、羽生君の目は美しいまでに澄んでいる。なぜあんなに澄んだ目をしているのか」

 内藤國雄九段があきれ顔で話したことがあったが、それはひたすらに将棋を愛し続ける羽生の心のなせる業なのだろう。深夜の感想戦でも、羽生は相手が提示する変化手順を、とことんまで追求しようとする。澄んだ瞳はさらに澄み渡り「これから将棋が始まるのではないか」と錯覚するほど精力的に指し手を延ばす。

 将棋への飽くなき愛情と、その情熱に支えられた貪欲な探究心がある限り、羽生が体力負けすることは考えにくい。

 心・技・体のバランスが高いレベルで整備された棋士、羽生善治。一連の挑戦者たちは、この絶妙なバランスを崩しきれずに敗れ去った。

 最も象徴的な場面は、名人戦第5局の最終盤だ。「森内必勝」で控え室の見解が一致したやさき、森内は△6九銀(1図)を着手した。

 これが詰めろなら、森内の勝ち。控え室の面々は「△9七銀とすれば確勝だが、この△6九銀も詰めろに違いない」と得心していた。森内も△9七銀で必勝であることはわかっていた。が、▲同香で羽生に銀を渡すのが「怖かった」と述懐している。「銀を渡しても自陣が詰まないのはわかっていたけど、怖かった」と。

 森内の残り時間は逼迫し、体力的にも限界に達していた。△9七銀で一手一手の勝ちをねらうより、次の即詰みのはずの△6九銀を選んだ。

 だが、実は△6九銀はわずかに詰まず、逆転を許す敗着になった。そして、すでに読み切っていた羽生は、森内が△6九銀を着手してくれることを祈っていたのだ。

「途中で長考して△6九銀ならたぶん詰まないな、と。相手に見落としがあれば、と思って指していた。△9七銀ならダメでしたね」

 局後、羽生はこう振り返っている。最後の最後で心・技・体のバランスが崩れたのは、追い詰めたはずの森内のほうだったのである。

 本来は4勝1敗でもおかしくない将棋を指しながら、結果は1勝4敗……森内は初のタイトル挑戦で「羽生とは対等に戦える」という自信と、「まだ自分には羽生に勝ちきれない何かがある」という自責の念を、同時に感じ取ったに違いない。この複雑な心境が妙な苦手意識にさえならなければ、森内はさらに大きく飛躍できるだろう。

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「なんとも個性的な各挑戦者は、この『自在の羽生ペース』にそれぞれの持ち味を封殺された」

料理の世界であれば、たとえば大量の醤油をかけてしまえば、ほとんどの料理の持ち味は封殺されてしまうわけだが、羽生将棋はそのようなイメージとも異なる。

オールマイティで幅広い世界を持つ羽生将棋であるからこそ、自在であるのだろう。

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「普通の棋士は、対局が終わると目が充血するものだが、羽生君の目は美しいまでに澄んでいる。なぜあんなに澄んだ目をしているのか」

仕事を10時間続けていれば目は充血するが、恋人と会っている10時間は目が充血するようなことはないだろう。

羽生善治九段にとっての将棋は、『ドクターX』の大門未知子にとっての手術と同じような位置付けと考えることもできそうだ。

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1図の△6九銀は、有名な局面。

名人戦第5局の特別立会人だった中原誠十六世名人は、△6九銀のところでは、

  • △4八成桂▲8八玉△6九銀▲7九金打△7八銀成▲同金に△4二金と受けに回って安全勝ち。
  • △9七銀▲同香△9九銀で必至をかける。以下▲4二銀△同飛▲同馬△同玉▲5三香成は、△同玉▲4四銀△5四玉で、上が抜けているのでわずかに詰まない。

の2つの勝ち筋があったと指摘している。

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「最後の最後で心・技・体のバランスが崩れたのは、追い詰めたはずの森内のほうだったのである」

人間同士の戦いで起こる、心理学的には何年かけても解明できないことなのかもしれない。