NHK将棋講座1996年8月号、鈴木宏彦さんの「将棋マンスリー 東京」より。
6月20日、前期全日本プロトーナメントで優勝した屋敷伸之七段の表彰式が行われた。このところ表彰式といえば羽生七冠王がらみのものばかりだったので、妙に新鮮で親しみの感じる会になった。
五十嵐豊一九段(屋敷の師匠だ)の祝辞がよかった。
「18歳で棋聖になったときには、ご両親を就位式に呼ばなかった屋敷君が、今回の表彰式には自分からご両親を招待したという。めったにないことだからというが、それだけ大人になったのでしょう。彼は競艇ばっかりやっているという話がありますが、自分の24歳のときを振り返ってみると、酒と麻雀と競馬の毎日。どうも、考えてみると、屋敷君を批判できる立場ではないんです。もっとも、今回は羽生七冠王や米長邦雄九段を破っての優勝。こういうことは研究しなくてできるはずがないんであって、本当は陰で勉強もしているんだと思います。ただ、屋敷君が将棋雑誌に連載している講座の頭に載っている競艇の話。たまには、ああいうのもいいんでしょうが、いつもいつもというのはどうか。そこのところを、もう少し考えてもらって、師匠の祝辞とさせていただきます」
祝辞は上のような内容。五十嵐九段らしい温かみのある言葉に、たくさんの拍手がわいた。決勝五番勝負ではずっとスーツ姿だった屋敷が、この日は紋付き姿。答礼のあいさつで「自分でもこれが最後の優勝かと思うと、うれしくてたまらなかった」と言ったからみんな大笑い。
ところで、師匠が心配している競艇の話。屋敷が『将棋世界』に連載している講座「プロの視点」はなかなかの力作だが、そのまくらにいつも「まくりのカトシュン」だの「予選は強いが、優勝戦で勝てない浜野谷」だの競艇の話題が出てくる。実を言うと、筆者も日本全国15ヵ所ほどの競艇場に足を運んだことのある隠れ競艇ファンなので、このまくらは毎回楽しみにしているのだが、競艇に興味のない将棋ファンにとっては、なにがなにやらさっぱりの話題であることも確かなのだ。
表彰式の途中、屋敷七段に直撃インタビューを試みた。
―全日本プロ決勝第2局の翌日、四日市から平和島(東京の競艇場)に直行したといううわさがありますが、あれは本当ですか。
屋敷「いやあ、勢いで。終盤の3レースにやっと間に合いました」
……筆者の予想では、講座のまくらはまだしばらく変わらないのではないだろうか。
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「前期全日本プロトーナメントで優勝した屋敷伸之七段の表彰式が行われた」
1996年4月~5月に行われた全日本プロトーナメント決勝五番勝負は、屋敷伸之七段(当時)と藤井猛六段(当時)の対決となり、屋敷七段が3勝0敗で優勝を決めている。
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師匠の五十嵐豊一九段の心のこもった温かい祝辞。
五十嵐九段も本当に嬉しかったことだろう。
「彼は競艇ばっかりやっているという話がありますが、自分の24歳のときを振り返ってみると、酒と麻雀と競馬の毎日」
五十嵐九段は、温厚な紳士で人格者。
そういう意味では屋敷七段は、終戦直後の頃の棋士の中に入ったら、全く無頼派ではなく、標準的だったことがわかる。
この当時の屋敷七段は、まさしく「昔ながらの将棋指し」ということになる。
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「ただ、屋敷君が将棋雑誌に連載している講座の頭に載っている競艇の話。たまには、ああいうのもいいんでしょうが、いつもいつもというのはどうか。そこのところを、もう少し考えてもらって、師匠の祝辞とさせていただきます」
屋敷七段はこの時期、将棋世界に「プロの視点」、近代将棋に「本筋の序中盤戦」を連載しており、それぞれ、毎号5~6ページのうち1ページ(まくら)が競艇選手の話だった。
屋敷六段の競艇や選手に対する愛情が本当に感じられる文章だった。
→屋敷伸之六段(当時)「というわけで、前置きが長くなってしまいましたが、とても書きたかったことなので、わがままと思いつつも書いてしまいました」
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屋敷七段は、近代将棋1996年8月号のインタビューで、
「ふふふ。そうなんですよ。当たらないですよ、競艇は。あまり考えないで買うとたまに当たりますが。金額も、お小遣い程度です。競艇であまりツキを使いたくないので(ツキは本職の将棋にとっておきたい)」
と語っている。
ギャンブルとしてではなく、駆け引きやレース展開を純粋に楽しんでいたことがわかる。
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「自分でもこれが最後の優勝かと思うと、うれしくてたまらなかった」
奇想天外なあいさつの言葉だが、屋敷七段は、この1年後の1997年、棋聖位を再び獲得することになる。