本を出したい
昭和60年頃、高木さんから湯川さんに「ちょっと相談があるから広島まで来てくれんかの。旅費は出すけん」という電話があった。聞いてみると本を書いてもらいたいというだけで詳しく言わない。週刊将棋で連載中の「ヒューマンファイリング」の取材のOKは出たので、本のことはともかく湯川さんは広島へ行くことにした。
着くなり本の話に入った。
「最近東京のほうで安部譲二(東京・渋谷の安藤組出身)いうのが本を書きよったが、わしの話のほうが面白いわ。どうや」
要は、湯川さんが高木さんのゴーストライターとして半生記を書き、著者名は高木達夫にしたいという希望だった。
脇には高木さんの右腕のKさん(現・二代目)がいて、しきりにこう言う。
「わしは反対や。せっかく広島が平和になっとるんやから、今さら波風立てるようなことはせんでええとオヤジ(高木)には言うとるんやが、聞かんので困っておるんですよ」
湯川さんは総合的に考え無理筋と思い、依頼を断った。
「ほな、そろそろ行こうかい」
高木さんはKさんと湯川さんを連れて、市内の料理屋へと向かった。
この日は、広島三大祭りの一つ、「稲荷山祭り」の前日だった。料理屋は稲荷社の隣にあり、このお祭りの本部となっていた。つまりお祭りに出店する露天商を仕切る本部であり、総責任者が高木さんということになる。
女中さんに案内されて奥座敷へと向かう。襖が開いて、湯川さんは、あっと息を呑んだ。
座敷には左右に膳が並んでいたが、そこには黒服を着た男が20人くらいいて、緊張した面持ちで高木さんたちを見ている。
「やあ、お待たせしました。こら、ウチのKや。こちらは東京から来たわしの友達での、わしのことを本にしたいゆうてな。祭り見物がてら取材に来よったんや。よろしゅうにな」
高木さんは本の件を全然諦めておらず、みんなの前でしっかり言ってしまった。湯川さんはこうなったら成り行き任せと思って黙って席に座った。
「今回はY組の方々、I会の方々が不幸にも喧嘩になってしもたが喧嘩には軍資金がいるで、どちらの方も広島でたんと稼いでほしい。ほいで市内一番のショバを当てたんや。地元の方々には堪えてつかあさい。そのかわり、お二方はこの広島で絶対喧嘩はせんことや。これは約束してほしい。昨日もわしが広島県警へ出向いて約束したことやから」
湯川さんはこの時、将棋で知っている高木さんとは全く違う、この業界を仕切る高木さんを見た。
この後の宴会で、湯川さんは色々な目にあう。
「あんた本を書く人らしいが、会長の本は絶対あかんよ。映画(仁義なき戦い)になったんは嘘ばっかりやが、高木さんが言うのはホンマのことや。せっかく平和になった広島に波風が立ってはまた喧嘩になるけのう」
この人は高木会の幹部らしい。
「あんた東京の人やな。わしも東京のP会には世話になったことがありましてな。懐かしいわ。ところで高木会長の本断ったんやて。会長はな、今のやり方に腹立てとるところがあるんや。書いてやったらええんや」
大阪か神戸方面の人らしい。
右腕のKさんもやってきた。
「オヤジさんがなんであんなこと言い出したかよう分からんのや。わしは絶対反対やから、よう覚えておいてくださいよ」
その後、宴会はお開きとなり、明日は商売が早いので皆帰った。高木さんと湯川さんは近くで軽く飲み直した。
「明日はな、あんたにも商売やってもらうわ。場所は外れやが、しっかり頼むわ。あんたら本を書く人は何事も経験や。そやろ」
高木さんは、湯川さんに本を書かせるのを諦め、「ヒューマンファイリング」の取材に応じた。
翌日は天気も良く、お祭り初日で、たいへんな人出だった。市の中心部では一日で百万円は売り上げる。ところが町外れだと二、三十万のところもある。それゆえに、常にショバ割りでもめるから、高木さんのような親分の絶妙な采配が必要となるテキヤ商売。警察でもどうにもならないことであるから、親分衆が祭りを支えていくことになる。
そういえば、昭和52年に亡くなった私の父は、仙台市の中心部の保健所で衛生関係の仕事をしていたが、仙台七夕祭りのときに、全国から集まってくる露天商(テキヤ)に対する説明会も担当していたらしい。仙台七夕祭りで食中毒など出しては切腹ものだ。保健所の威信をかけた説明会だ。
父が母にしていた会話を思い出すと、衛生面の説明(検便や手洗いなど)とともに、刺青をしている人は、刺青が見えないように長袖のシャツを着るようにという指導もしていたようだ。
このような説明会を開催する場合に、警察力や保健所力をもってしても、参加者集めなどできないだろう。全国から集まる露天商など把握できっこない。地元のテキヤの親分と緊密なコミュニケーションを取らなければ成り立たないものだと思う。
父の昔の会話に「伊藤親分」という言葉がよく出ていたが、その人が当時の仙台で露天商を仕切っていたのかもしれない。父の話の感触では、伊藤親分に対して、かなり良い感情を持っていたものと思える。
故・花村九段がよく言っていたらしい。
「テキヤは世のためになっているよ。彼ら抜きではお祭りができない」
この日、湯川さんは町外れの露店を担当した。そこは高木さんの棋友の素人テキヤが出しているオモチャ屋だった。
任された店は台の上にオモチャが山のように積まれ、壁には戦艦大和の模型や大型のピストルなどが飾られている。
客に1回百円でクジを引かせ、1等から5等までの景品を渡すという商売。ちなみに5等は、ブームが過ぎてからかなり経ったエリマキドカゲのオモチャ。
湯川さんは声も大きいし話術も巧みだが、このときは「戦艦大和当るよー」とどんなに客寄せをしても客が店の前で止まらない。
しばらくそれを見ていた高木さんの棋友が、ニヤニヤしながら「わしがやってみようかいのう」と言う。
幼い子供の手を引いた若い母親がやってきた。男は満面の笑みで声をかける。
「ちょっとお嬢さん、そうや、あんたよ、きれいやなあ。モデルさん思うたわ。あれ、甥っ子さんかいのう。え、お子さんかい。じゃけん親子に見えんなあ。可愛い子じゃな」
高木さんの棋友は、むさ苦しく髭の濃い、色気と全く縁のなさそうな人だったが、若い母親は嬉しそうに眼を輝かせて店に寄ってきた。
子供を引き付けるのではなく、母親を誉める。
これでコツをつかんだ湯川さんは、その後、客を寄せられるようになった。
私はこれらの話を聞いて、この茶目っ気のある高木さんに強い興味を抱いた。何回かの広島抗争(仁義なき戦い)を経て生き残るには、実力と人望と魅力と運のある人でなければならないだろう。
私の心の中で、高木さんに会ってみたいという想いが生まれ、その想いはどんどん強くなっていった。
「湯川さん、何かの取材の機会があったら、是非広島に連れて行って下さい」
「よし、高木さんとは久しく会っていないから、いつか行ってみよう」
私が、湯川さんの近代将棋連載「アマ強豪伝」の取材に同行する形で広島へ行くのは、それから1年4ヵ月後の、1998年9月のこととなる。