羽生善治三冠が最も印象に残っているタイトル戦(衛星放送編)

羽生善治三冠が最も印象に残っているタイトル戦。

将棋マガジン1990年3月号、山田史生さんの、「第2期竜王戦七番勝負、激闘のあとを振り返る」より。

 第四局は北海道層雲峡(朝陽亭)にて。十一月半ば、もう外は雪が降ったりやんだりの冬景色だった。

 対局は四度目の相矢倉。ここにも羽生の意地っ張りぶりがうかがえる。

 相矢倉で二敗一引き分け、相矢倉で勝ちがないのだから違う戦法を用いたらどうかと思うのは素人考え。一度は矢倉で勝っておかなければ、ずっと避けることになってしまう。絶対矢倉を避けるわけにはいかない、というのが羽生の考え。

 羽生には今後のためにいろいろな戦法を指しておきたい、との思いが根底にあり、勝ちを得た次は別の戦法を選ぶことが多い。ここ層雲峡で初めて勝ったため、次の第五局では”横歩とらせ”を選ぶことになる。

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 第五局(岐阜県下呂・水明館)、前夜、一日目夜と温水プールで水泳を楽しんだ島だが、二日目対局時の動作がどうもぎこちない。「どうかしましたか」と声をかけたが「いや別に何でもありません」と島。しかし体の動きがロボットのように直線的なのだ。

 終局後、また聞くと「実は寝違えまして・・・。でもこれは言わないで下さい。それで負けたように思われるのは嫌ですから。知人の医者に電話でどうしたらいいか聞いたら安静が一ばんということでした。大丈夫です」とのこと。でも体の動きが悪ければ、やはり頭脳の集中力も欠けるであろう。この寝違えは島にとって大きなアクシデント。

(中略)

 なお第五局の島の投了は午後五時五十七分。六時でいったん放送中断となるNHKの衛星放送に気を遣って?の投了のようだった。控室では「投了の瞬間や敗戦の姿をナマで全国放送されるのはつらいから六時すぎてから投げるよ」など無責任な発言もあったが、島の考えはそれと反対。自分の敗戦の姿であっても、ファンの喜ぶ方を優先するのが島の立派さ。島ならではの気配りであった。

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 第六局(富山市・高志会館)は羽生が調子をあげ、一方的な快勝。二日目午後三時十五分の終了だった。あまりの速さに控室はびっくり。それほど羽生の寄せは早く的確。島も粘りようがなかったのだ。

 別のフロアで解説会を三時から行っていたのだが、開始十五分後の終局でお客もあっけにとられていた。しかし関根九段、石田八段らが丁寧に初手から解説したりしてサービスにつとめた。

 これは衛星放送で生中継されていたが、何と島、羽生の二人は感想戦終了後、控室で本局の解説を面白そうに見ていた。

「ふむふむ、なるほど」「えー、そうかなあ」「アッハッハ、あんなこと言って」、合いの手を入れながら興味深げ。それはそうだろう。衛星放送は原則としてナマだからこういう早い終局の時でもないと自ら見るというわけにもいかない。

 しかし解説時間も長く、ちょっと解説者の方で時間をもて余している感じ。読売、NHK共同の解説会でもあるので私がファンのためを思い、喜ぶからちょっと顔を見せてくれるよう羽生に頼んだ。

 勝者の羽生は島に気を遣ってか、「それはちょっと、勘弁して下さいよ」などと渋っていたが、島からも「早く終わったのは君の寄せが早すぎたため。責任あるんだからちょっと行ってきたら」と応援の言葉が出て、羽生断りきれなくなり解説場へ。

 観客は羽生をナマで見られて大喜び、大拍手。石田八段、塚田八段らの質問に、手どころの読みを披露したりして、約十分ぐらいだったが大満足の富山のファンだった。プロ棋士に直接会うことはめったにない地方の将棋ファンのためにも、こういう機会があれば、やはり顔を出すのが正しいあり方のように思えた。

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この時代(1989年)は、衛星放送が開始されて5年位経った頃で、アメリカで商用のインターネットが開始された頃。

そのように考えると、現在のインターネット中継は将棋史的に革命的であることが実感できる。

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1989年(平成元年)は、6月に「天安門事件」、11月に「ベルリンの壁崩壊」があった年。

流行った曲は、Wink「愛が止まらない」、美空ひばり「川の流れのように」など。

映画は「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」など。

代表的文学作品は村上春樹『ノルウェイの森』など。

日経平均株価は、12月29日に史上最高値38,957.44円をつけ終値は38,915.87円だった。