近代将棋2001年2月号、近代将棋会長 永井英明さんの「近代将棋創刊50周年 泣き笑い半生記」より。
本誌は創刊号から、ときの第一人者木村名人の”平手腰掛け銀の研究”の連載を得て、幸せな船出が始まりました。
木村名人はいつもお目にかかるたびにはげましの言葉をくださって、「私は若い人が大好きだ。若いときは、奮闘努力だ。そして思い出をたくさん作りなさい。歳をとってから、思い出のない人生なんてつまらんよ」。いまでも、そのお言葉が耳に残っています。
最初に少しばかりの原稿料をお届けしたとき、「創刊したころが一番、お金がいる時期なんだ。ぼくのことは考えなくていいよ」と言われて、どうしても受け取って頂けませんでした。
後日、名人の著書「勝負の世界」を拝見すると!「いままで私の人生行路のうちで、最も苦しかった時代は、昭和22年第6期名人戦で塚田氏に敗北してから、再び名人に復活するまでの二年間であった。その間には”新生(タバコの銘柄)”一箱さえ買う金がなくなって、後日暗い情けない日をおくったこともあるし、また子供の授業料が払えなくて、実に暗い情けない思いをしたこともある」
ちょうど、私が原稿をお願いに上がったころで、それから名人位を回復されたとはいえ、まだ何ヵ月も経ってはいません。
江戸っ子って、すげえなあ。と、驚いたしだいです。
(中略)
米長永世棋聖がよく、「木村名人には”花”があった」と言われるのですが、たしかに大輪の花を背負っておられるような感じがありました。
人を引きつける力は単なる話術ではなく、気配りというか、周囲を見わたす眼力がありました。
昭和25年夏、創刊から数ヵ月経ち、販路を広げようと考え、北海道の炭鉱の将棋同好会を何ヵ所かたずねました。
途中、札幌の福井資明八段をまず、表敬訪問したときのこと。ちょうど大きな将棋の催しがあり、木村名人がこられていると聞きました。
会場の受付で「東京から来たものですが、木村先生にご挨拶をしたいのですが」と名詞を差し出すと、さっそく取りついでくれました。
しばらく待つと「名人がお通しするように」と、係の方が広い会場に案内してくれました。
北海道将棋界のお歴々が居並び、木村名人を中心にいま、大宴会が始まろうとする寸前です。
名人が司会の人をちょっと制して、「東京から来た人がいるので、皆さんに、ここで紹介したい」と言われ、私に「ここまで、原稿を取りにきたのか」と言われたんですね。
どきっ、としました。なんとお答えしたらいいのか。
北海道まで原稿を頂きに上がることはちょっと、非常識。しかし、ここは馬に乗ってみよ、お言葉には従ってみよ。そう、心に決めて、
「はい、原稿をいただきに上がりました・・・」
名人はにっこりなさって、「ご苦労でした。しかし、まだ原稿はできていないんだ。必ず書くよ、一生懸命に書くよ」
会場はしーんとしてました。座にいる方々はなんのことかわかりませんし。
私は木村名人座長の名舞台を見ているような、気分でした。
名人はおもむろに、
「いま、ここにいるのは永井君といって、新しく将棋の雑誌”近代将棋”を創刊した人です。私は応援します。毎号、原稿を書くことを約束した。どうか、皆さんも力になってください」
拍手が、しばらく・・・・・・。
木村名人の温かさ、偉大さ。あのときも、いま考えても、ありがたくて、目頭が熱くなります。
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この話を聞くと、”人情の機微”という言葉が頭に浮かんでくる。
心温まる話だ。
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私が将棋を覚えた小学3年の頃、母が、「将棋には、木村名人、大山名人という偉い人がいる」と教えてくれた。
将棋と縁もゆかりもない母が言ったことだから、木村義雄、大山康晴という名前は、ほとんどの当時の日本人が知っていたということになる。
木村義雄十四世名人が引退したのは1952年。
引退してから15年以上経っても一般の主婦に名前を知られている訳で、それほど、木村義雄十四世名人は偉大な存在だった。