将棋マガジン1992年11月号、奥山紅樹さんの「ロールスロイスは目にしみるか?(中) 昨今奨励会事情」より。
(本文では実名となっていますが、ブログ記事ではイニシャルにしています)
退会者が出た。―
K(20歳、1級、田中寅彦八段門下)。21歳の誕生日をひかえ、この夏最後になるかもしれない奨励会対局日を迎えた。
三連勝すれば昇段の目が残る。が、この日、一敗でもすると、即退会である。
「彼はよく連盟にも顔を出して、コツコツ棋譜を並べて勉強していたから……」
「何とか、とどまってほしいね」
大野八一雄・神谷広志両幹事は朝から落ち着かない表情であった。「退会」を言い渡す役回りは誰でもいやなものだ。
K君の勝率は昨年12月以降5月まで、20勝13敗。6割の勝率だが、昇段規定にはおよばない。この一番をA君とたたかっている。顔面が白い。
午前11時40分、結果が出た。K1級の負け。1987年入会いらい、5年間にわたる彼の奨励会生活は終わった。
「エレベータ前に……うつむいていました」
仲間会員の”報告”に、「ここに来るように言って」と幹事。
K君が対局室に入ってきた。幹事の前に正座する。メガネの奥が、光るしずくで濡れている。数人の会員が、遠巻きにして彼を見守る。
「こういう結果になって……おたがいに残念だけど、きょうで退会ということです」
と大野幹事。
「ハイ」 小さな声。
「このあと、身の振り方について何か考えているの」
「…………」
「どう?」
「いえ、何も考えてません」
「ぼくの知っている人で、元奨励会員の採用を希望している会社の社長さんがいる…『アルゴリズム研究所』という会社だけど」
「…………」
「先輩の元奨励会員が働いているから、もし希望するようなら、いつでも相談に乗ります」
「…………」
「本当に……残念だったとしか言いようがない」
「…………」
「ご苦労様でした」
重苦しい空気の中に、別室で対局中の田中寅彦師匠が顔を見せる。
「K君、どうだった?」
大野幹事、黙って首を振る。
「そうか……だめだったか。それじゃあ……私からお母さんに話して……きょうは対局なので、これが終わってから……ね」
K1級の目は真っ赤。遠巻きに見ていた会員たちも、いたたまれない表情になり一人去り、二人去る。
「とにかく……体に気をつけて、元気で」
大野幹事の言葉とともにK君退席。
筆者は若者の無念の胸中を思った。おのれのふがいなさを責め、さぞやつらかろう。くやしかろう。だが奨励会での修行経験は、いつの日か必ずK君の人生にプラスする。
人間が一事に全力を傾けたエネルギーは、けっして無駄になることはない。おじさん観戦記者のささやかな人生体験に照らしても、そのことは断言出来る。
挫折にめげず、目先だけを見ず、青年よ荒野を歩め!
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奨励会退会が決まった日、この日の心の模様は筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。
受験で失敗しても、失恋しても、次のチャンスはあるわけだが、奨励会退会は、そのひとつの夢を二度と追いかけられなくなることを意味している。
瀬川晶司四段の「泣き虫しょったんの奇跡」にも、奨励会退会が決まったの日のことが書かれているが、涙なしに読むことはできない。
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