永井英明さん逝去

元・近代将棋社長の永井英明さんが9月24日に亡くなられた。享年86歳。

近代将棋は1950年に創刊され2008年6月号まで58年間刊行されていたが、永井さんは1950年から1997年まで社長を務められていた。(その後は会長職)

また、1981年から1990年までNHK杯将棋トーナメントの聞き手も担当。

戦後から昭和、平成と、将棋界で多大な功績のあった方だ。

永井さんは、特に木村義雄十四世名人、大山康晴十五世名人などから非常に信頼をされていた。

将棋会館建設のために大山康晴会長(当時)が企業などに協力をお願いに訪問する際、永井さんは秘書のように大山会長に随行していたという。もちろん永井さんの手弁当だ。

今頃は、天国で、木村名人、大山名人、升田幸三実力制第四代名人、塚田正夫名誉十段、金子金五郎九段などと再会をされていると思う。

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近代将棋2001年1月号、永井英明さんの「泣き笑い半生記」より。

 まずは創刊当時のうら話を聞いていただけますでしょうか。

「近代将棋」を新雑誌として発行する準備は昭和24年の夏ごろからはじめました。そのとき私が頭を悩ました点は3つ。①執筆者、②誌名、③体裁、をどうしようか。

 ①は木村名人をはじめ、当時最高の棋士、関係者の方々にお願いしました。そのころまだ23歳で恐れを知らない若造の私はとにかく夢中で原稿依頼に走り回ったのです。関西は大山、升田両先生。一面識のないので依頼状を何通かお送りしましたところ升田先生から「毎度のご依頼にもかかわらず原稿が不作でしたのは、昨年の暮れよりカゼのため身体ともに精神の疲れが甚だしいので当分休ませてください」とのご返事が。

 大山先生からは自戦記「残念だった一戦」が届いたのです。

 何十年もあとになって、大山先生の奥様から「永井さんからの当時の手紙がとってありますよ。見せましょうか」と言われてびっくり。とてもうれしかったのですが見るのは辞退しました。当時は熱心さが度を越していたようで、あらためて見るのは少々恥ずかしかったのです。「近代将棋というタイトルなので、どうしても先生の原稿が必要なのです」などと勝手なことが書いてあったにちがいありません。

 ②は、当時、升田、大山両先生の躍進によって「近代将棋」という言葉が流行語のようになっていたので、それをそのまま頂戴しました。

(中略)

 このようにして徐々に雑誌は形となっていきます。

 創刊号の部数は8000です。これは当時の将棋雑誌としては破格の数だったらしく「えっ、そんなに刷って大丈夫なの」といった声も多かったです。

 ですが、その内容を見てください。

 木村名人の「平手腰掛け銀の研究」をはじめ塚田前名人、大山、加藤(治)、原田、建部、梶、高柳各八段らの豪華陣が競ってくださいました。

(中略)

 また、創刊号では随筆「名人戦の始まった頃」も評判になりました。これは、名人戦創設の立役者であり、当時毎日新聞の学芸部長だった阿部真之助氏(のちのNHK会長)が名人戦秘話を語られたものです。

 皆様のお力で「近代将棋丸」の船出は順調に始まりました。

(以下略)

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過去にブログで紹介した永井さん執筆、あるいは永井さんに関連する記事。

心温まる話

中田功奨励会員の下宿

加藤一二三八段(当時)が書いた観戦記

詰ませたくなる形

棋風の違い

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中野隆義さん、湯川博士さんは、永井英明さんとは非常に関わりが深かった。

将棋ペンクラブ会報冬号、あるいは春号に、永井英明さんの思い出話が載ることだろう。

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私は1997年の3月頃に、仕事の関係で、会長職になられたばかりの永井さんに初めてお会いした。

テレビや本で見たままの永井さんが目の前にいて、とても嬉しい気持ちになった記憶がある。

その後は、近代将棋のイベントなどで遠くからお顔を拝見するだけだったが、いつも温厚な笑顔をされていた。

将棋会館で行われた何かの会の時に、私の靴を間違って履いていった方がいて、少しの間待っていると、永井さんが申し訳なさそうに戻られてきた。

永井さんと私の足の寸法が同じだと知って、また嬉しくなったのものだった。

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永井さん、本当にありがとうございました。