行方尚史八段が初めて順位戦A級に昇級した時の、団鬼六さんの喜び。
団鬼六さんから行方八段への最高のラブレターのようなエッセイ。
近代将棋2007年6月号、故・団鬼六さんの「鬼六面白談義」より。
私の棋友である吉川さんは私と同年代の老人だが、この間、泣きながら私の家へ電話してきた。アホだと思っていた孫が東大に受かったというのである。
東大の受験に孫が合格したということはそれはおめでたいことだが、何もそんなに泣きながら私に報告してくることはないだろう、と、おかしくなった。あのアホ孫が、とか、バカ孫が、とか、やたらに孫をけなすのであるが、その孫は中学生の頃、夏休みを利用して信州の吉川さんの別荘へ友達と遊びに行った時のこと、信州から暑中見舞いを吉川さんにくれたことがあるらしい。それには、山や野原でキャンプした時のことをくわしく書いているのはいいとして最後に、おじいさんの健康を草葉の陰からお祈りしてます、と書いてあったので、吉川さんは孫が東京へ帰ってくるとすぐに呼び寄せて怒ったそうだ。草葉の陰からおじいちゃんの健康をお祈りしてます、とは何だ。これ、草葉の陰とは死んだ人間のことをいうものだ。お前はピンピン生きているじゃないか、といって叱りつけると、それに対し、孫はどういったかというと、
「ええっ、うそっ、まじっ、鼻血、ブーっ」
祖父の説教に対しての反応が、うそっ、まじっ、鼻血ブーっとしかいえないアホ孫が高校に入ってから猛烈に勉強したらしく、塾にも精勤に通って東大に合格を果たしたということは吉川さんにしてみればメロメロに嬉しかったのだろう。
あの鼻血ブーのあほ孫が―と、あとは涙で声がうわずって何をいっているのかわからなかった。
それから何日かたって、3月16日、B級1組の最終順位戦が終わり、翌、3月17日、行方から、負けました。だけど何とかA級へ昇れました、と、私の家へ電話が入った時、どういうわけか、急に涙が出て止まらなくなった。アホ孫が東大入試に成功して感激のあまり泣き出した吉川さんの涙とはちょっとニュアンスは違ってくるのだが、行方も遂にA級棋士になったか、という一種の悲哀感からくる涙で、しばらく電話で絶句してから行方にこういった。
「A級八段に昇格したって。ええっ、うそっ、まじっ、鼻血ブーっ」
ここだけは吉川さんのアホ孫の台詞を使ったが実際、行方がA級棋士、八段に昇格することになるとは私にとっては驚きの鼻血ブーっであった。行方が初めて私の家へ来たのは16歳、初段の頃で、それも16年も前のことになる。
全く売れなかった将棋アマチュア雑誌、将棋ジャーナルをかかえてニヒリズムに浸りながらそれをデカダンスに置き換え、奨励会員の悪ガキ共を集めて連日、どんちゃか騒ぎしていた時期があった。将棋というものが人を酔わせる魅力を持つのはその真理性ではなく、ジャズの如き頽廃性にあるのだと自分でもわけのわからんこといって、アマチュア団体と奨励会員達を試合させるために大阪へ遠征したこともあった。そして、早朝から焼肉屋で酒を飲んで遊び呆けていたようだが、あの頃のメンバーを思い出してみると、伊藤能、豊川孝弘、飯塚祐紀、それに久保利明、行方、鈴木、近藤など、現在の中堅棋士が浮かび上がってくるのである。
最終順位戦が終わって3日後、行方はやっとこさ八段になりました、といって私の家へ報告に来て、慣例によって飛落将棋を一局指すことになったが、どういうわけか泣けて仕方がない。行方が羽生や谷川のいるA級に入ってこれから順位戦を争うことが出来るかと思うと、それが嬉しいのだろうか、いや、そんなことでもない。16年前の私にとってはデカダンス時代の光景が甘美で物悲しく思い出されてそれが阿片のようなノスタルジアとなって私を酔わせたのかも知れない。
私との指導対局中に行方の腹がグーグー鳴るので、どうした、と聞くと、朝から何も喰ってない、というのであわてて家内にカレーライスを作らせ、食わせてから対局を始めたということや、宴会が始まって、おい、唄え、というと、上着を脱がずにズボンだけ脱いで狂った百舌みたいな声で歌い出し、何となく奇矯性があったあの時の行方初段が今は天下の八段か、そう思うと、一口に16年前といっても人生の遠い旅情を感じ出すのである。
あの当時、横浜の私の家へ出入りしていた奨励会員で誰が最も早く高段者に昇りつめるかと私が予想したことがあった。一位は棋理に明るく要領がよく、如才のない豊川孝弘であった。二位は性質が穏便で堅実派の飯塚祐紀である。もし、将来、A級に昇る棋士が私のデカダン塾から輩出するとすれば豊川か飯塚だろうと想像したこともあった。案に相違して鈴木大介と行方尚史の二人が八段に昇段したわけだが、この二人、奨励会時代はそんな大器になる翳りなど微塵もなかった。何時も二人ともポーッとしてアホみたいだった。時々、二人を三階の空室で一万円の懸賞を乗せて将棋をさせたことがあったが、その時代から二人は好敵手であった。そんな時、アマ強豪の小池重明が遊びに来たので二人を戦わせてみたことがある。すると奨励会初段では小池の怪力には及ばず、二人ともやられて小池に懸賞の一万円をぼったくられ、プロがあの筋悪のアマに負けるとは何事か、と、鈴木、行方両人を叱り飛ばしたことがある。もう16年も前の甘美で懐かしい思い出だ。
そういえば3月30日の永井英明会長盤寿の会の日、ヒルトンホテルで私の家内も久方ぶりに鈴木、行方両人と出逢って昔話に花咲いたが、B1最終戦にもし鈴木大介が勝っていたら、行方、鈴木揃ってA級へ昇格出来たのに残念だったと私が言うと、いや順位の都合で僕が高橋九段に負けたから行方はA級へ昇ることが出来たのです、と、鈴木大介は苦笑していった。そういうことになっているらしいが、眼に見えない運命の糸が奨励会時代の悪ガキ二人をどこからか引っ張り合わせているのだろう。
そんなことはどうだっていい。そういうツキが廻ってきたというのも実力が備わってきたという証拠である。何としてもめでたいことだ。時、正に4月、よし、桜見物の花見船を今年も出そうと思い立った。
早速私は案内状の作成にかかった。
―私の体調思わしくなく、去年の花見船を最後にしようと思ったのですが、今年もまた慣例によって桜船を出すことにしました。
と、いいますのは行方尚史君が今期、八段に昇格、A級の座を占めることになったからで、つまり、祝い船を出そうというわけです。
行方君は16歳初段の頃、鬼六デカダン塾へ入塾し、師匠の私から酒と遊びとデカダンな生き方を教わった悪ガキでした。それが16年後の今日、まさか、A級八段の座を占めるとは! 喜びというより驚きで、驚きというより呆れ果て、これは何としても昔の将棋ジャーナル時代に戻って飲んで騒ぐべきだと思い立ちました―
まあ、こんな書き出しで今回のさくら船は棋士仲間を主体に乗船させると行方にいうと、行方は祝い船を仕立てるなどそんな晴れがましい座を作られるのは苦手です、などといって尻込みしたが、うるせえ、俺が人を集めるんだから、お前一人デカダン気取りで威張ってやって来い、といって近将の編集者、中野君と白岩君に手伝いを頼んだ。
(つづく)
—–
デカダンはフランス語で、退廃的というような意味。19世紀のフランス文学界の一つの潮流だった。
団鬼六さんは、亡くなる数年前からこの言葉を多く使うようになっていた。
—–
私も、朝まで焼肉店で飲んでいたことは何度かあるが、朝から焼肉店で飲んだことはない。
というか、朝起きて、そのまま飲みに行ったことが一度もない。
一番早くてもお昼の12時だ。
朝から飲みに行くのがデカダンの第一歩か。
—–
行方尚史八段と同じタイミングでA級に昇級したのは木村一基八段。
—–
団鬼六さんが借り切る屋形船に集まった人達は全て招待客。
屋形船の昼の飲み放題コースで1人約10,000円なので、団鬼六さんは桜船だけでも約60万円をポケットマネーから出していることになる。
—–
吉川さんの孫は、明日の後編にも登場する。
お楽しみに。