将棋マガジン1988年8月号、福本和生さんの第11期女流王将リーグ観戦記「強くなった女流」より。
5月25日、曇り空。風が光る季節なのに、このところ天候がよろしくない。快晴を喜んでいると翌日は冷たい雨に見舞われたりで、すっきりしない。
この日も雲が厚かったので、家を出るときカサを持っていこうかと思ったが、つい面倒になってノートを入れた紙袋だけをぶらさげて電車に乗った。
千駄ヶ谷駅から将棋会館まで、のんびり歩いていると武者野勝巳五段に会った。対局でなく観戦ということなので、まだ時間も余裕があり「コーヒーでも飲みましょう」となった。
名人戦のことから”若手の時代”へと話題が移る。なぜ若手が飛躍的に強くなったのか。
「先輩が汗だくでようやく完成させた高速道路を、着工のころに誕生したような若者が快走していく。そんな感じですかね」と武者野さん。
思えば先輩たちは、未舗装のでこぼこ道を自転車のペダルをこぎながら走り続けてきた。そして完成させた高速道路を自分たちは走れずに、疾走する若者の姿にぼう然となっている―。
ところで女流棋界はどうなんだろう。とても高速道路が完成しているとは思えない。棋戦が3つに増えたのだから、ようやくバイクに乗れるようになった、というところか。しかし、道路はいぜんとして旧道のままである。
そんなことを思っていると、店の窓ガラスに、ぬっと大きな顔が映った。田辺忠幸さんだ。テーブルについてコーヒーを注文したが、午前10時の対局開始まであと10分ほど。心配すると、コーヒーは2秒で飲む、と泰然たるものである。
忠幸さんが奇妙な物を首からぶらさげている。本因坊戦のツアーで夫妻でパリに行ったと聞いたので、パリ製の補聴器かと思ったら、なんのことはないボールペンだった。それにしてもコーヒーが遅い。残り時間3分でホットコーヒーが運ばれた。なんと、ほんとうに2秒で飲んでしまった。どんな舌をしているのか。コーヒーの一気飲みを初めて拝見させてもらった。忠幸さんも女流棋戦の観戦という。わたしもそうだ。
「年寄りふたりが並んで、若い女性の対局拝見ですな」。一気飲みの直後とは思えぬ、しんみりした口調に、武者野さんもわたしも吹き出してしまった。が、年寄りのもうひとりは、わたしである。笑ってばかりはいられない。
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25年前の今日の、とてものどかな千駄ヶ谷の朝の光景。この年の5月25日は水曜日だった。
福本和生さんは元・産経新聞記者、故・田辺忠幸さんは元・共同通信記者。
舞台となっている喫茶店は「ルノアール」だったのだろう。(現在の千駄ヶ谷駅前店とは別の場所にあった)
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武者野勝巳五段(当時)が語った将棋界の高速道路理論。2006年に梅田望夫さんの著作で紹介された羽生善治三冠の高速道路論とは意味合いがやや異なるが、この頃から高速道路論があったということは興味深い。
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田辺忠幸さんのコーヒーの2秒一気飲み。
私は猫舌なので、全く想像がつかない。
田辺さんは共同通信時代は、運動部で将棋と相撲を担当していた。
多くの新聞社は文化部や学芸部で将棋を担当しているのだが、共同通信だけは運動部というのが面白い。
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今日は将棋ペンクラブ交流会の日。
ルノアールはなくなってしまったが、千駄ヶ谷駅から将棋会館まで行く途中で、コーヒーを10分くらいかけて飲んでみようと思っている。