近代将棋1991年3月号、湯川恵子さんの「女の直感」より。
今年の正月休みはとうとう一局も将棋を指せなかった。指さない日が三日続くことはよくあるが、暇な三が日に駒を手にしなかったのはこの二十年間で初めてだ。そばに絶好の相手が二人居たのに、彼らと麻雀やって過ぎた。
絶好の相手とは私が自分より将棋の強い男を勝手にそう決めているだけで、この正月の場合は夫と妹の亭主である。二人とも、まず将棋は指したがらない。
夫は昔五年間、将棋雑誌の編集をしていた。その頃から外では全く指さなくなった。家でも本当は指したくないのに、妻が強姦するがごとくねだった時に渋々応じているだけだ。義弟とは二年前に一局指したのが最後になっている。ねだる私が弱過ぎる割に投げっぷりも悪いからかと、気にしていたのだが、どうもそれだけではなさそうだ。かつて入りびたっていた近所の将棋会所にも、今はほとんど指しに行ってない。この義弟は将棋雑誌の会社に勤めている。妹が将棋雑誌の社員と結婚した時は私は大喜びした。身内に絶好の棋友ができたゾと。すっかりその当てがはずれちゃったわけだ。
二人とも元はと言えば将棋が好きでその縁で将棋雑誌の仕事にかかわったはずだが、意外と言うか当然と言うか、将棋の実戦そのものへの興味は失っている。
将棋連盟の職員たちは、どうだろうか。やはり将棋が好きで憧れ叶って就職した人が多いと思うが、今でも将棋を指すことが好きだろうか。恐らく連盟内では指したがらないんじゃないかしら。それとも、ああいう安定した職場だと公務員みたいに昼休みパチパチ、やっているのだろうか。いや、なんたってプロ棋士を先生と頂く職場だ、希望と挫折の繰り返しかしら―とか、まァ判らぬことを考えても仕方ない。
義弟が実戦から遠ざかった理由は訊いたことがないが、将棋雑誌の社員であることと全く無関係ではなかろう。めちゃ子ぼんのうの所へ次々と子供が産まれた点もそりゃ全く無関係とは言えないか。
こと夫に限っては、将棋や将棋人間に対してはまるで川底の石を引っぺがしてその裏の虫まで見つけるような興味があるくせに、自分が人と指すことはケンカも辞さぬほど嫌いなのだ。飽き飽きした、ウンザリする、と言う。強い人たちを詳しく知り過ぎて、一つ自分の棋力に結着つけてしまったのかも知れない。羨ましいなァ、と私は思う。義弟も夫もそれなりに飽きる理由と飽きる権利があって、キッパリ飽きているらしい点が、とても羨ましい。
去年の暮れ、旅先のいなか町の飲み屋にて思い知った。その店には将棋盤があり私は酔客に誘われて一局指しあっけなく負けた。夫は友人としゃべっていた。
「よお、俺はダンナさんのことも知ってるんだ。強いんだろ、一局行こうか」
「いやァ私は将棋はダメなんですよ。女房はキチガイですから良かったらもう一局教えてやって下さいよ」
「そうか。しょうがねェなあ」
で、二局目も私が負けた。
「よお、ダンナさん、あんたシロートじゃねえんだろ、どのくらい強えんだ」
「将棋なんか僕はもう十年も指したことがないんですよ、友達と飲みに来ただけですから、かんべんして下さいよ」
「かんべんたァおかしいじゃねえのっあんた、俺が一局願いますて頭下げてんだよ」
「お願いされたくないなぁ俺は」
「なにおー、てめェそれでも男か」
「おーっ男だ」ガタッとイス鳴らして夫は立ち上がり「この野郎おもてへ出ろっジジイ」ガッと見開いた目が酒と怒りでギラギラ光っている。私はあわててビールびんとグラスを持って隅へ逃げた。男は「おー、おーっ」騒いで外へ飛び出した。すると夫はまた座り直して飲み出し、男はそのまま帰って来なかった。妻の私でさえ怖かったもの、ジジイさんも怖くて逃げたんじゃないかしら。飲み代を払わず行ってしまったので、夫が「チエッ」と言いながら払った。短気は損気。
とにかくその一件で私は彼がよくよく将棋を指したくない人なんだと思い知ったのだ。あんな無礼な誘われ方をしたら誰だって指したくないかもしれないけど、私だったらケンカするよりは、面倒くさいから一局指してバイバイするほうを選ぶ。この辺が私は夫と比べると実に小器用でいい加減なのだ。棋力の限界はとっくに承知しているのに、理想も信念もケジメもなく中毒的に駒のお尻を押し続けている。飽きる権利さえないのだ。中途半端で。もし義弟があの飲み屋と同じような局面に出くわしたら、どう展開するか、麻雀しながら話題にした。
「えーっ怖い。僕そんな店へ行きませんお酒飲めないし・・・第一、外で将棋の話するってことめったにないですから、大丈夫でしょう」
「お姉ちゃん達、将棋の本書いたりしてるからいけないのよ、だからやたら指そうって言われるのよ」
「恵子はいいんだよな別に、見境なしに指したいんだから、そう言えばお前、今年はまだ指そうって言わないね。おや、やけに静かだよこの人。リーチか?」
中途半端だろうがなんだろうが好きだから仕方がない。うん、私は私でいいのだ。量もいつしか質に変わるって、あの短編詰将棋作家の岡ピンさんも言ってた。いちいち自分にケジメつけったらやることが無くなっちゃうもん。などと、新年早々ぐちゃぐちゃ考えてたら麻雀も一人負けしてしまった。
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私が湯川博士さんと知り合ってから16年6ヵ月経つ。
その間で湯川博士さんが将棋を指しているのを見たのは一度だけ。
1998年に「広島の親分」高木達夫さんを訪ねて行った時のこと。
この時は、どうあっても将棋を指さざるをえない状況であり、高木さんを前にして対局を拒むなどということはありえない話だし、博士さんもそういう前提で広島へ行っている。
博士さんは二局とも四間飛車。二局とも高木さんに勝った。
特に二局目は高木さん終盤必勝の局面で、博士さんが15分ほど長考し、高木さんの玉を詰ませに行った。
私は高木さんが勝って喜ぶ顔を見たかったのだが、博士さんは容赦がなかった。
博士さんは後に次のように語っている。
「こっちがものすごく不利だったから、高木さんに勝ってもらおうと思っていたんだけど、詰みが見えて、つい手が出ちゃった。悪いことしたな」
そういえば、湯川博士さんに、強いのにどうしてあまり将棋を指さないのかと聞いたことがなかった。
湯川博士さんとは会えばいつも飲んでいるので、博士さんと将棋を指そうという発想さえ起きなかったというのが正しいところだと思う。
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反対に、私は湯川恵子さんとは、対面・ネット合わせて500局以上指していると思う。
ネット対局場の近代将棋道場があった頃は、湯川恵子さんは手が空いていれば、必ずネット対局をしているという毎日だった。
湯川博士・恵子さんのお嬢さんは、ご主人と結婚を決める前にご主人とのお子さんを身ごもってしまった。
お嬢さんは、言い出しづらかっただろうが実家へ電話をした。
「あ、お母さん、あのー、私、、、子供ができちゃったんだけど・・・」
「・・今、ネット対局している最中で大事な局面なんだから、そんな話、あとから電話してきて」
お嬢さんは、その後の電話で飛躍的に話をしやすくなったことだろう。
湯川恵子さんらしい思いやりだと思った。(半分本気でそう思っていたかもしれないが)