近代将棋1991年10月号、「若手棋士インタビュー 藤井猛四段の巻 一人将棋でつかんだ将棋観」より。
上州沼田は、長野、新潟、福島を背に負い、山梨、栃木を側面に見、目前には東京、埼玉の武蔵野が開けている要衝の地だ。戦国時代には、武田、上杉、真田、織田、北條などの武将がこの地を狙って謀略の限りを尽くしたという。
平和の世に、この地から盤上の武将を目指す若武者が出てきたことは頼もしい限りだ。
奨励会に入ったのは高一とやや遅いが、四段は20歳と早い。しかし途中は必ずしも順調ではなく、足踏みで悩んだ時期もあったという。
将棋をはじめたころは。
「小学校の5年生ごろ。そのころ学校で流行っていまして。ええ、よく負けました。負けず嫌いだったんでしょう、それから将棋の本を買い込んで夢中でやっていたらいつのまにか強くなっていまして」
棋士になる人はほとんどが負けず嫌い。同じ上州は前橋の関根紀代子女流四段も負けず嫌いが高じてその後プロになった人で、数々のエピソードが残っている。
ところで沼田には将棋の会があるんですか。
「日将連沼田支部は約100人も会員がいるんです。でも僕はそちらにはあまり行っていませんで、中二の時に研修会に入りました。Cクラスから入りましたが、ほとんどノンストップでAクラスに上がって、奨励会入りしました」
ずい分順調のようですね。
「いや、それが一度受験して落ちまして。この時逆に気が楽になりましたね。1年後受けてダメならもういいや。それで秋の試験めざしてやってたらノンストップでAⅡに上がり、自動的に6級入会ということになったんです」
1年後受けてダメならいいや、というのは、もう奨励会(=プロ棋士)は諦めたという意味ですか。
「そうです。年齢的にもその辺りが限度じゃないかと思っていましたから」
客観的な目を持った人は勝負事に向いている。
入会時はいくつですか。
「15歳。高一の秋になっていました。もう入ってからは高校(県立)はそっちのけで将棋に熱中しました」
1級までは早かったとか。
「ええ、順調でした。ところが1級で足踏み状態になって、かなり焦りました。歳も17、8歳でしたし」
学校は。
「ええ、なんとか理解あって卒業しましたけど。それよりも将棋の方が・・・」
何が原因だったんですか。
「ハッキリわからなかったんですが、今考えると、勝ちにくい将棋だったんじゃないか、と」
どういう将棋だったんですか?
「金銀が左右に分かれている中飛車みたいのが多かったんです。それが玉が薄くなる分、居飛穴なんかやると不利でして。でも、2級まではそれでなんとか勝ってきたんですけどね・・・」
奨励会を務める人は1級から初段の壁に泣いている人が多い。やはり級位者はアマに近い将棋だが、有段者ともなるとプロに近くなるせいか。
「それまで、3ヵ月で1級ずつ上がるペースで来たのがバタリと止まりまして。上がり目ができないんですから計算のしようがない。そのうち1級のBに2回も陥ちたり。歳は18になるし、辛かったですね」
3ヵ月ごとに上がるとはまた快調なペースだが、よほど力が溜まっていたのだろう。その預金がちょうど2級の時にゼロになった。また一から預金をしないといけない状態になったのではないか。
それでどうやって脱出したんですか。
「はじめはちょっとくらい負けが込んでもいいと思っていましたけど、そのうちだんだん深刻になってきて、これはとにかく勝たなくては、と思いました。それまで僕は、細かい味の将棋が好きで、穴熊は嫌いだったんです。でも薄い振り飛車玉では居飛穴に勝てないんじゃないかと思うようになりまして」
自分が負けるのは戦法のせいじゃないか、と認めるのは相当に現実が厳しく、本人もいい素質を持っていたせいだろう。自分の通ってきた道を否定するのが怖いあまり、意地でも認めたくないという人も多いはず。特に勝負の世界では、自分のやり方が間違っていたとは認めたくない空気がある。
居飛車穴熊の威力を認めて振り飛車をやめちゃった、なんてことは。
「いえ、僕も穴熊に入ったんです(笑い)。それからは穴熊一辺倒(笑い)。それで急に勝てるようになった」
戦法もさりながら、預金がなくって勝てなくなり、悩みに悩み、あれこれ動いているうちに力が溜まってきたこともあるのではないか。
「勝ち越すと、それまで忘れていた昇級の感覚ももどってきて、連勝できるようになりました。
三段リーグは2期目で四段と、早かったですね。
「はい。1期目が12勝6敗で4位。今期が2位の位置で15勝3敗の昇級でした」
藤井の昇級を決めた一番には、非常な大胆で印象的な局面があった。藤井玉は低い美濃囲い。相手は銀多伝のような高い囲い。その敵玉頭に飛車が頭から突っ込んでゆく。飛車には角のヒモがついているから、飛車と銀歩交換になる。
「攻めが切れさえしなければ」という大局観だったらしいが、大事な昇級の一番というのに、ちっとも震えが感じられない指し方だった。
奨励会時代はどんな勉強をしていたのですか。詰将棋だとか研究会だとか。
「それが詰将棋とか実戦とかあまりやってなかったんです。時々、沼田から1時間の距離にある赤城村の都橋さん(元奨励会でのち赤旗名人)のところへ月に1回くらい父に連れていってもらうくらいで・・・」
実戦不足になりませんか。
「小学生のころから、一人で将棋をやるクセがついてて、一人将棋ばかりやっていました。可笑しいでしょ」
いや、可笑しくなんかないですよ。私も小学生のころはずい分やって、家族にそんなの面白いのかなんていわれてましたから。それにしても、プロを目指す人が一人将棋を楽しんでいて、それで強くなってゆくなんて、愉快ですね。
「詰将棋は難しい、という意識があってあまりやっていません」
ところで順位戦初参加ですが、手応えはいかが。
「2回戦の松浦五段との一戦は、真夜中の12時までかかったのですが、千日手になりまして指し直し。負け将棋だったので丸々もうかったかなと思っていました。後手番だったし、それで30分休んで指し直したのですが、必勝に近い将棋になったのですが、終盤目が見えなくなって・・・・・・」
C2にはベテランの力のある人はいるからねェ。
「富沢先生(幹雄八段・71歳)にも王座戦の予選で富沢キックをやられてしまいました。この形ならという磨きこんだ戦法を持っていられるようです」
戦法的にはやはり穴熊が多いんですか。
「ええ。でも居飛穴も組むと強いんですが組むまでにかなり神経使います。右金をどうやって穴熊にくっつけるか、角をいつ引くか。師匠の西村先生にも一門の研究会で教わりまして、角を早く引くようにと」
どんなメンバーですか。
「高橋道雄さん、森下さん、などめったに教えていただけない方々がいますのでとても嬉しいですね」
ほかには研究会は。
「それが、ありません」
やりたくないわけじゃない。
「はい。コネがないんです。遠いせいでしょうか」
藤井さんは酒もタバコも麻雀もしない、真面目人間で今も沼田の実家にいる。そんな関係で人間関係が少ないのかも。
そうすると、ふだんはヒマがあるんでしょう。
「ええ、ヒマです(笑い)」
まだプロ棋士の生活がどういうものかよくわからないのかもしれない。将棋指しで伸びてゆくには、伸びる環境を自分でつくりだす力もなくてはいけない。1級から初段への壁があったように、四段なから五段(C2からC1)への壁も厚い。
藤井さんは闘志も見えず努力家ふうでもない。淡々としている様子だが、冷静に自分を見つめ、修正してゆく現実的な能力がある。
戦国の世でもみくちゃになりながら生き抜いてきた、上州沼田というしたたかな土地柄が彼の中に宿っているのかもしれぬ。
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藤井猛九段が四段になったのが1991年4月なので、このインタビューはそれから3~4ヵ月後のこと。
「藤井さんは闘志も見えず努力家ふうでもない。淡々としている様子だが、冷静に自分を見つめ、修正してゆく現実的な能力がある」
とあるが、まさに三つ子の魂百まで、若い頃から藤井猛九段は藤井猛九段だったことがわかる。
片ツノ銀中飛車→振り飛車穴熊→四間飛車→藤井システム→藤井流早囲い矢倉→角交換振り飛車という展開も、冷静に自分を見つめ修正していく継続があったからこそ。
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この頃の藤井猛四段(当時)にはまだ硬さがあったのか、現在の藤井猛九段のように面白い会話がポンポン出てくるような流れというわけではないが、それはそれで新鮮だ。
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