昨日の記事の続編。
近代将棋2007年9月号、「特集・森内俊之十八世名人」より。
東京あきる野市に奨励会入会前の森内少年が通っていた将棋道場がある。工藤将棋道場の席主である指導棋士・工藤浩平七段は、いわば森内名人の最初の師匠にあたる。工藤先生に話を伺った。
エピソード① 森内俊之永世名人の少年時代
「初めて私の道場を訪ねてきたのは小学3~4年の頃だったでしょうか。私の師匠の京須行男八段が森内くんの祖父だった関係もあり、森内君のお母さんに電話で頼まれました。土日教室に横浜から毎週欠かさず通って来ていました。
最初の印象はワンパク。将棋が強くなるにつれてだんだんと謙虚になってきましたけれど(笑)。
まあ、とにかく将棋が好きでしたね。よくあちこちの将棋大会や将棋合宿にも連れて行きました。広島や青森などの地方にも遠征して各地のアマ強豪と対戦させました。特に私の出身が青森なので八戸支部には何回も御世話になりました。小学生が一週間も親元を離れるのですが、将棋が本当に好きだったから何ともなかったのでしょう。
それから、彼は子供の頃よく熱を出していたのですが、府中で対抗戦がある日にも40度近い高熱が出まして、周囲の心配をよそに、頑張って指していました。責任感も強かったですね」
栴檀は双葉より芳しという。森内の才能を速くに見抜き、子供の頃から様々な経験を積ませた。良き指導者に巡り会えたことで森内はプロへの第一歩をふみ出した。
工藤将棋教室に通っていた生徒からは森内名人の他、今回の挑戦者郷田真隆九段、行方尚史八段、飯塚祐紀六段、岡崎洋六段らがプロ棋士になっている。
エピソード② 工藤先生からの手紙
「毎年5月に渡しと西東京支部で西東京名人戦という大会を開催していまして、毎年森内君が思想で来てくれます。例年名人戦の第4局が終わった頃で大変な時期だと思うのですが、義理堅いというのでしょうか。必ず来てくれる。
ところが、どうも相性が良くない(笑)。ここに来た後の第5局に3年連続で負けているんですよ。特に今年は連敗スタートでしょう。それで森内君に手紙を書きました。
『今回は大事な名人戦だから、こっちには顔を出さなくていいから、とにかく対局に専念しなさい』と。結局今年は来させませんでした」
工藤先生からの叱咤激励が森内をどれだけ勇気づけ、鼓舞させたことだろう。この手紙のあと森内は巻き返す。名人位を防衛し、永世名人の称号を手に入れた。
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過去の記事「森内少年の作文」を読み直してみると、森内俊之名人のお母様からの言葉で、森内名人の小学校低学年時代はいたずら好きで行儀がすごく悪かったこと、教室に入った当初はでたらめな将棋を指していたこと、などが書かれている。
様々な意味で、工藤浩平指導棋士七段との出会いは、森内名人にとって非常に大きなことだったことがわかる。
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森内少年は、よく熱を出していた。
私は子供の頃、よく鼻血を出していた。
脱脂綿を見ると、鼻血を連想してしまうほど。
しかし、子供の頃のこのようなことも中学生くらいになると解消するものだ。
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工藤浩平七段による、子供の頃の、郷田真隆九段、行方尚史八段、飯塚祐紀六段、岡崎洋六段のこともぜひ聞いてみたいものだ。