将棋マガジン1991年6月号、一昨日亡くなられた山田史生さんの「忘れ得ぬ局面 観戦記者編」より。
原稿依頼をうけ、どの局面をとりあげようかと、スクラップブックをめくってみる。毎日の仕事に追われていると、つい2、3年前の米長-島、島-羽生の竜王戦対決が、既に懐かしい対局になっているのに愕然とさせられる。
昭和46年に将棋担当となってから20年、七番勝負に関しては、十段戦、竜王戦と全局取材で現場に出向いた。それぞれが思い出に残る対決、名勝負であったが、何といっても迫力随一、将棋とは実は格闘技なのではないか、との印象を強くうけたのは、中原-加藤戦をおいて他にない。中原誠-加藤一二三の十段戦七番勝負対決は次の通りである。
第15期(1976年度) 中原4-3加藤
第16期(1977年度) 中原4-3加藤
第19期(1980年度) 加藤4-1中原
第21期(1982年度) 中原4-2加藤
さて1図。何の変哲もない序盤と思われるかもしれない。第16期十段戦の第七局一日目(於東京将棋会館)、加藤の手番で封じ手直前の局面。
当時、封じ手は午後5時半。この時手番だった方が次の手を封じるのだが、たいてい10分前後、長くても30分ほどの後には封じるのが普通であった。ところが午後4時58分から考慮に入っていた加藤、いっこうに指す気配がない。延々と考え、ついに7時。もちろん持ち時間の範囲でどの手に何時間考えようとそれは自由。
しかし一日目の終了は6時前を想定、6時半ごろから食事をする予定で準備を整えてある。もうこの日は指さないからある程度の酒も出るし、食事もコース料理が出る。それがまだ封じ手をしないうちに7時になってしまった。
規定で7時から一時間夕食休憩。急きょ、酒はとり外し料理だけの食事。立会人の原田九段、長谷部八段、それに相手の中原十段ら、ぼそぼそと、口数少なくコース料理を食べていた姿が思い出される。
午後8時対局再開、加藤はさらに考え続け、9時10分にやっと封じ手を行った。実に3時間12分もの大長考だった。この間、もう自分は指さないのだから、いる必要もないはずの中原が、律儀に席を外すこともなく、正座して加藤の指し手を待ち続けていた態度も忘れられない。
それにしても加藤の盤面への集中力、精神力はすごい。他の思惑など眼中になく、自分の納得いくまで考えぬく姿勢にもまたつくづく感心させられた。長い盤側生活で夕食休憩後の封じ手というのはこの一例があるのみ。忘れ得ぬ局面であるゆえんだ。ちなみに加藤の封じ手は▲2五桂。二日目開始時点で残り時間二時間を割っていた加藤、終盤見損じがあってタイトル奪取ならず。
この16期十段戦は、前年も4-3できわどかっただけに中原も必死であった。第二局箱根・石葉亭では一日目終了後、加藤が「対局室のじゅうたんの色が強すぎるので外してほしい」と注文を出したところ、中原は「私はあった方がいいです」と考えが対立、立会人の松田茂役九段、加藤博二九段が調製にこれ努めた。中原も相手の言いなりになるのでは気分負けに通じると思ったのだろう。
第三局の川治対局では加藤が「川の流れの音が気になる。眠れないといけないから」と部屋を変えたところ、中原も「それなら私も」と変えるなど、いろいろな所で張り合った。
第19期は第一局の前日に中原のご尊父が亡くなるという突発事態があり対局日をずらした。中原心労でか精彩なく十段位を奪われた。一方の加藤は逆に絶好調となり、この後ついに宿願の名人位も中原から奪うなど二冠王となった。
立場が変わり、名人・十段の加藤と無冠中原が対決した21期も激闘続きだった。
第二局の熱海・美晴館旅館では中原が初手▲7八金と指し加藤を挑発した。”たまには振り飛車にしてみろ”というわけだ。この時の中原の初手7分、加藤の初手△8四歩の14分が異常に長く感じられ、その不気味な静けさと共に▲7八金の局面が脳裏に焼きついている。
第四局、箱根・石場亭対局も息詰まる熱戦だった。終盤加藤残り3分。中原は30数分。形勢不明。中原考慮中、まだ指さぬと見た加藤、素早く手洗いに立つ。しかしきわどい戦いの最中、敵に塩は贈れぬ。中原容赦なく着手!
残り1分となった加藤は55秒といわれても平然。58秒で西部の早撃ち拳銃使いのようにパッと駒をつかみ打ちつける。それも全力で打ちおろすから盤がずずんと響く。迫力満点だ。
2図は加藤が△5三歩と受けた所だが、勢い余って、その歩が斜めになった。むしろ横向きに近いぐらい。しかし58秒での着手だから直している余裕はない。直せば着手完了と見なされないかもしれない。加藤はほったらかし。中原も自分が直す筋ではないとばかり、その斜めの歩をじっと見つめていた姿が目に浮かぶ。
この対局、この後▲6七香△8七歩成▲2八飛△9八金までで加藤の勝ち。
中原-加藤戦では忘れ得ぬ局面がまだまだ多いので最後にもう一つ。21期の最終局となった第六局は加藤やや面白いかという形勢で終盤に入った。しかし例によって加藤は一分将棋。そこで迎えたのが3図。△5五桂に中原が▲7八玉と逃げた所だが、この局面詰みがあった。
△8七銀▲同玉△8六金▲7八玉△7七金▲同玉△9七飛成▲8七歩△8六角▲7八玉△6七桂成以下、控え室で数人の棋士が発見していた筋なので、もう数分あれば、加藤の力量をもってすれば容易だったはずだ。しかし残り1分の加藤はこれを発見できず長蛇を逃した。この第六局に勝っていれば十段の行方はどうなっていたか分からない。加藤の痛恨の局面として印象深い。
初手▲7八金の「美晴館」も、ひんまがった△5三歩の「石葉亭」も、廃業して今はない。しかし迫力度ナンバーワンの加藤は、頭こそ白くなったがなお健在である。その勇姿はタイトル戦でこそ映える。またヒノキ舞台へ登場してほしいものだ。
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頭金まで指した2図の終わり方、中原誠十段の無念さが伝わってくる。
昭和の頃の加藤一二三九段はヒール役が似合っていた。
山田史生さん、今頃は田辺忠幸さんや井口昭夫さんなどと談笑しているのだろう。
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