近代将棋1973年1月号、故・倉島竹二郎さんの「関根金次郎物語(1)」より。
このたび、私は本誌の依頼によって近代将棋の父である第十三世名人関根金次郎翁の伝記風な物語を執筆することになった。
(中略)
ところで、無精者の私は、関根名人の生まれ故郷であり、またそこが終焉の地でお墓もある千葉県東宝珠花に、まだ一度も訪ねていなかった。で、執筆する前に墓参方々東宝珠花に行ってみたいという希望を述べると、社長の永井英明氏が「そんなら私も一緒にお伴をしましょう。クルマならたいしたことはなさそうですから」と、云って下さった。この話を伝え聞いた棋界評論家の日色恵氏(女優の日色ともゑさんのお父さん)から電話があって、自分も一度関根名人のお墓に参りたいので同行願いたいが都合はどうか?との問い合わせがあった。私は無論大いに歓迎だった。
当日(11月4日)の午前11時に、私達三人は渋谷区千駄ヶ谷の将棋会館で落ち合い、永井氏運転のクルマで早速でかけることにした。
(中略)
途中、醤油で名高い野田市の道路わきにある食堂で昼食をとったが、その食堂の自慢料理は鯰の天婦羅であった。日色氏は敬遠したが、永井氏と私はものはためしと、それを注文した。最初はちょっと気味悪かったが、味は淡泊で決して不味くはなかったし、如何にも千葉の片田舎にやってきたという感じがした。そして、少年時代の関根名人が髭の生えた大きなナマズを生捕りにしてキャッキャッと騒いでいる姿が想像されて頬笑ましかったし、そういえば、いつだったか川魚の話が出た時に、関根名人が鯰もなかなか乙な味がすると自慢していられたのを聞いたような微かな記憶が甦ってきた。
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食堂で聞くと、東宝珠花はそこからクルマで10数分とのことだった。
(中略)
間もなく東宝珠花のある関宿町に入ったが、目ざす家は関根彦一氏という鍼灸を業とする人の家であった。彦一氏は関根名人の兄さんの孫に当たり、関根家の本家を継いでいる人であったが、紹介者は関根名人の縁者で直弟子でもある渡辺東一八段で、親切な渡辺さんは前以て彦一氏に電話をしておいてくれたそうだ。
関根家は東宝珠花では昔から聞こえた家柄らしく、日色さんがクルマから降りて尋ねると直ぐに分かったし、その教え方が丁寧で何となく尊敬しているような言葉使いだったという。私は日色さんからそれを聞いて、不図思い出したことがある。
江戸時代の関根家は農家だったが、関根名人のお父さんである関根積次郎さんの代から農業をやめてお灸を業とするようになった。これには次のようなエピソードが伝えられている。
ある冬のこと、80近い老僧が雪に難渋をして積次郎さんの家に一夜の宿を乞うたことがあった。信心深い上に世話好きの積次郎さんは快くその老僧を泊めたばかりでなく、雪がすっかり溶けるまでの数日間を親切に、もてなした。感激した老僧は、出発する際にお礼のしるしだと云って、秘伝のお灸の据え方を積次郎さんに伝授した。そのお灸がよく利いて、この噂が違郷近在に拡まり、患者がワンサと押しかけてきて、しまいには百姓仕事をやっていられなくなり、遂に代々の農業をやめて鍼灸の先生に転向した。
(中略)
関根家は表に「関根接骨医院」という看板が出ていたので直ぐ分かったが、クルマを置くところを捜すと、関根家の筋向いのあたりに、御影石の可なり大きな鳥居のある「日枝神社」というお社があり、その前の空き地に置くことにした。私はそのお社を見た途端「ははん、このお社だな」と、心の中で頷いた。
関根名人の自伝である「棋道半生紀」を読むと、少年時代の関根翁はお父さんの積次郎さんとは打って変わった鬼子と云われるほどの腕白小僧だったようである。そして、近くの江戸川の土手の下に祀ってある馬頭観音に小便を引っかけたり、鎮守のお社の賽銭箱に松脂をつけた棒を突っ込んでお賽銭をつり上げたそうだが、そのお賽銭をつり上げた鎮守のお社が、この日枝神社に違いなかった。興味深かったが、日枝神社はのちほどユックリ拝見することにした。
その日枝神社と道路をはさんでの反対側に墓地があるらしく、這入り際のところに「第十三世将棋名人関根金次郎の墓」と書かれた木の標識が立ててあった。ここも後でお参りすることにして、私達は墓地と同じ側の関根家を訪ねた。
庭の広い家であったが、入り口を這入って直ぐ目についたのは、庭の中央に建てられた胸像だった。後で分かったが、これは関根名人がまだ在世中の昭和17年に名人の徳を慕った東宝珠花の有志が募金してつくった名人の胸像であった。
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関根家は旧い家屋に新しい家屋が建増されてあった。どちらも平屋建だったが、私達は新しい家屋の方に通された。
永井氏や私のことは渡辺八段が電話でよく話しておいて下さった様子なので、私が日色氏を紹介して、日色ともゑさんのお父さんだと云うと、彦一氏は直ぐ奥さんを呼んでそれを告げたが、お二人とも嬉しそうな顔色であった。多分どちらともともゑさんのファンなのであろう。
鍼灸を業とするというと、目の不自由な人を連想する方がいるかも知れないが、彦一氏はそうではなく、何処か関根名人に似通ったところのあるニガ味走った容貌の折り目正しい人柄で、奥さんも清楚な美しい婦人であった。そして、渡された彦一氏の名刺には肩書きに「柔道整腹師」と書かれてあった。
彦一氏は私の書いたものを読んでいられるらしく、今度の関根金次郎物語を大変期待しているとのことだった。が、関根名人がなくなられた当時の話になると、その声はしめりがちであった。
「兵隊にとられていた私が終戦でここに戻ってきた昭和20年には、名人は今は取毀してしまった裏手の小さい二階屋に住んでいられましたが、まだ歯もそろっていてお元気でした。しかし、当時はご存知のようにひどい物資不足でしたし、名人は老人性白内障で視力がすっかり弱り、目に見えて老衰が目立ち始めました。そして、昭和21年の3月12日に、それこそ眠るように亡くなられたのですが―」
「お傍には誰かついていられたのですか?名人にはたしか英子さんという若い奥さんがいられましたが」と、私は尋ねた。
「私は戦争に行っていてくわしいことは存じませんが、英子さんはこちらに来るのを嫌って東京に居残り、始めは名人が一人でやってこられたそうです。そのうち名人の目が悪くなって、英子さんもやっと姿を見せたのですが、夫婦仲はうまくいっていなかった様子で、名人が亡くなられると英子さんは直ぐ故郷の島根県へ引き上げ、その後音信不通になってしまいました」
「それじゃ、あまりお幸せではなかったのですね。関根先生は東宝珠花に随分つくされたと聞いていますが、何分ああいう時代でしたから―」と、私は終戦直後の地獄絵さながらの世相―闇買いをしなかったために栄養失調で死亡した教授のあったことなどを思い出しながら云った。
「その通りなんです。村の人も名人のご恩を忘れたわけではないのですが、自分達家族が生きるのが精一パイで、たまに野菜などを持って名人を慰めにくるのが関の山でしたし、それ以上はどう仕様もなかったのです。忘れもしません、亡くなられる少し前に、名人は何とかもう一度鮪の刺身が食いたいと仰しゃいましてね。それで方々に頼んでおいたのですが、なかなか手に入りませんで、あちこち捜し廻ってやっと鮪の頭のところを手に入れ、少しついていたカマのあたりの身を取り出してどうにか刺身風につくってさし上げました。名人はとても喜ばれて、旨い旨いと舌鼓を打ってたべられましたが、あの時の名人のお顔がいまだに忘れられません」と、彦一氏はこう云って目を瞬いた。
私は思わず目頭が熱くなった。たしかに、その頃の物資不足は今から考えると嘘のようであった。それにしても、日本でただ一人の終生名人であった関根翁が、鮪の頭からとった誤魔化しの刺身を、不自由な目をしながら旨い旨いと舌鼓を打っていられる姿を想像すると、涙なしにはいられなかった。
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彦一氏はそれから旧い家屋の方に私達を案内された。そこには関根名人の思い出の品が多かった。
(中略)
彦一氏は床の間の前に置いてあった将棋盤と駒を見やすいところに運んでくると、「これが名人が使っていられた盤と駒です」と云って、碁笥のような入れ物に入った駒を盤の上にあけた。
そこには黒檀の彫駒と黄楊の彫駒がまじっていた。黒檀の駒はもの珍しかったが、あまり使用した形跡はなく、黄楊の駒はいかにも関根名人の掌の膏が沁み込んだような古色の艶があった。しかし、盤(榧には違いなかったが)も駒も名人の持ち物としてはお粗末な品であった。私はその関根名人の膏が沁み込んだような赤色の艶のある駒を手に持って眺めたが、不図また次のような記憶が甦った。
これは昭和8年頃の話だが、関東と関西の愛棋家が箱根に会して東西縉紳将棋大会という催しをやったことがある。その将棋大会に、私は故佐々木茂索氏と故南部修太郎氏の両先輩と共に文壇を代表して出場したが、縁起かつぎの私は温泉から出るなり指した最初の将棋が快勝したので、一局すませるごとに風呂場に出かけた。ところが、関根名人(名人はたしか審判長であった)は温泉好きと見えて、二度も湯槽の中で顔を合わせた。と、二度目のとき関根名人は
「倉島さん、今日の個人優勝は貴公に決まったよ。何故って、勝負の最中に二度もわしと一緒の風呂に這入ったのだから、名人の気が自然に貴公に移っているからじゃよ」と、破顔一笑、縁起を祝ってくれた。
それが自己暗示となったのか、私は日ごろの実力以上によく指して、とうとう5人抜きをやって関根名人の予言通り個人優勝をしたのであった。私はその時のことを思い出しながら、気がつくと、関根名人の掌の膏の沁み込んだ駒を無意識に撫ぜていた。
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「それでは、お墓に出かけましょう」
彦一氏は用意してあった対の美しい供花を持って、私たちを直ぐ横手の墓地に案内した。
来しなに目についた、墓地の入り口にある「第十三世将棋名人関根金次郎の墓」と書かれた木の標識の裏側には、「昭和四十五年一月十八日建設関宿町教育委員会」としるされてあった。先程彦一氏に聞いたところによると東宝珠花にある二川村と木間ケ瀬村が関宿と合併して現在の関宿町になったのだそうだが故郷の人々が決して関根名人を忘却していないことは、その標識を見ても窺われた。
そこは東宝珠花の共同墓地らしかったが、関根名人の墓所は直ぐ目に這入った。関根翁が生前につくておいたという「関根金次郎碑、将棋十三世名人自書」と刻まれた縦横とも1メートルほどもある大きな駒型の石碑が、石の台の上に建てられていたからだ。お墓はその碑の左手前にあって、それには「覇王院殿棋道大成大居士」という戒名が刻んである。
(中略)
それはともかく、駒型の碑の両側に、関根名人のお墓と同じぐらいの墓が一基づつ建っていたが、それは石川友次郎七段と吉田一歩という人のお墓で、どちらも関根名人が生前に自分の墓と一緒につくらせたものだという。私は吉田一歩についてはよく知らないが、石川友次郎七段は京都の人で、関根名人の青年時代の好敵手であった。石川七段は35歳で惜しくも亡くなったが、恐らく血まなこになって真剣勝負を繰り返したであろう相手の墓を自分の墓と一緒につくった関根名人の、何というやさしく、そして豊かな心の持ち主であったことか。これは現代人にはちょっと理解出来ない心情かも知れない。
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墓参をすませてから、私達は道路を渡ってクルマの置いてある日枝神社の方に行った。「関根先生がお賽銭を松脂の棒を突っ込んで取ったという鎮守のお社はここですね?」と私が訊くと、案の定「そうです」と、彦一氏は微笑しながら肯いた。このとき
「倉島さん、この石の鳥居は関根名人の奉納した鳥居ですよ」と、日色さんが境内の入り口の大きな御影石の鳥居を見上げながら、ビックリしたような声を出した。そう云われて、改めて鳥居を熟視すると、なるほど石の柱の上に「奉納、十三世将棋名人関根金次郎」と彫ってあったし、裏側には「昭和十二年十月吉日建之」と、あった。
「こんな石の鳥居はどれぐらいするものでしょうね?」と、下衆根性の私はすぐ費用のことが気にかかったが、そのとき先に境内に入って行った永井さんが「倉島先生、ここにもこんなものがありますよ」と、私を呼んだ。で、日色氏と私は急いで出かけたが、そこには「金一萬円」と彫られた大きな自然石が立ててあった。そして、早速裏手に廻った日色さんが「大正十五年十一月二十八日と書いてありますよ」と教えてくれた。
大正15年の一萬円は現在のいくらぐらいであろうか?当時は20円や30円のサラリーマンが少なくなく、千円で相当な家が建てられた時代だけに、この頃の1万円は現今の一千万円を遥かに越えていたと思われる。
私達を驚かせたのはそればかりではなく、参道の両側にいる対のかなりでかい石の狛犬も、また御影石で出来た相当大きい御手洗も、やはり関根名人が奉納したものであり、彦一氏の話では、日枝神社を出たところにある公会堂と称する建物も関根名人が寄贈したとのことだった。
私達はただただ驚き入るほかはなかったが、当時の将棋界は現在ほど盛んではなく、棋戦も今とは比較にならぬほど少なかっただけに棋士の収入もしれたもので、関根翁がどうしてこれだけの奉納や寄贈が出来たのか?全く不可解であった。が、私はそこに単なる郷土愛という以上に、自分は将棋界の頭領であるという関根名人の誇りと勝負師らしい心意気を感じた。関根翁は名人である自分がケチなことをしては将棋界全体の名折れだと、随分苦しい思いをしながらそんな様子はおくびにも出さず、金に糸目をつけずに立派なものをつくれと胸を反らしていられたのではあるまいか?と、そんな気がした。
日枝神社のお社自体は相当古びていたし、前に出ている筈の賽銭箱が見当たらなかった。で、「賽銭箱はどうなったのでしょう?」と尋ねると「賽銭箱は中に置いてあるのです。皆が名人の真似をしてお賽銭を取ると困るので、投げ込めば這入るようにしてあります」と、彦一氏はユーモラスに答えた。私は心のうちで「お賽銭を取られても、それが鳥居や狛犬になってもどってくるのだろう、神さまはもっと出しておいた方がよいと仰しゃっていられるかも知れないな」と、そう思っておかしかった。
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日枝神社を出ると、左手100メートルほどのところに高い土手が見えた。江戸川の堤だとのことで、私達は彦一氏に導かれてそこに行った。
(中略)
日色さんと私は、広々とした江戸川一帯を眺めながらツレ小便をした。私はツレ小便をしながら少年時代の関根名人が土手下に祀ってある馬頭観音に小便をひっかけたという話を思い出し、この堤の上で赤トンボを追っている関根少年の姿を想像した。そして、やはりやってきてよかったと思った。
「千葉は飯岡の助五郎や笹川の繁蔵などバクチ打ちの多いところですが、関根名人は将棋指しにならなかったら、大前田英五郎のような大親分になっていたかも知れませんね」と、ツレ小便を終わった日色さんがそう私に話しかけたが、ライバルの墓を建てる任侠的なところや、日枝神社で見せられた金に糸目をつけぬ太っ腹なところから推して、私はたしかに日色さんの云う通りだろうという気がした。
(以下略)
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倉島竹二郎さんの文章を読むと、倉島竹二郎さんがいかに棋士を愛しているかが本当に伝わってくる。
関根金次郎十三世名人が亡くなる直前の鮪の刺身の話などは特に印象的だ。
たしかに、関根名人が将棋ではない別の道を歩んでいたら大親分になっていたのではないかという説はとても説得力がある。
関根名人が江戸時代から続いた「一世名人の制(死去するまで名人の意味)」を廃することを決意したのも、そのような器量があったからこそとも言える。
木村義雄十四世名人は、1973年の近代将棋誌上の土居市太郎名誉名人追悼座談会で、関根名人の決断がなければ、関根名人の後は土居市太郎十四世名人、そして土居名誉名人が亡くなった1973年(木村名人が68歳の時)に自分が十五世名人になっていただろうと回想している。
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今日は女流名人位戦第2局〔里見香奈女流名人-中村真梨花女流二段〕が野田市の関根名人記念館で行われる。→中継
関根名人記念館が東宝珠花にできたのが2003年6月のこと。
地元の人が関根名人を慕う心は今も変わらない。