ヒールになってしまった羽生善治四冠(当時)…番外編

将棋世界1994年7月号、大崎善生編集長(当時)の「編集部日記」より。

5月16日

 昼頃、羽生棋聖と対局中の谷川王将が編集部へ。

 「私の初手▲7六歩に羽生君、どう指したと思います?」。

 何手か言ってみたものの当たらない。

 「△6二銀ですよ、△6二銀」

 怒っている。その後、内容は終始押していたが、結局谷川さんは負けてしまった。

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将棋世界1994年7月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 in 関西将棋会館」より。

 その谷川と東京で出会った。深夜、会館をのぞいたら、ちょうど対局が終わったところだった。竜王戦で、相手は羽生棋聖。見るとやっぱり谷川が下座に座っていた。

 感想戦が終わって二人になってすぐに「今日も羽生先生、早く来て上座に座ってたんやろ?」と聞くと「いえ、私が先にこっちに座りましたから」と言う。

 「なんでやねん、上に座って彼が来たら、ここがワシの場所じゃ!って睨みつけへんのかいな。そんなんしたら事件になってオモロイがな」

 「ち、ちょっと…ところで神吉さん、私が先手で▲7六歩と突いたんですけど、どうやってきたと思います?」

 「そんな言い方するから変な手やねんやろな。えっと、△7四歩」

 「いや、ちょっと」「△5二玉」「いや」「△9四歩」「それも」「△6二銀」「それ、そうやってきたんですよ。どう思います?」

 その後谷川はその将棋の事にふれなかった。しかし表情は「俺もなめられたもんだな」と、そんな風に見えた。

 後日、脇七段がこの将棋を並べてこんなことを言っていた。「あかん、羽生君は谷川先生の怒らせ方知ってるわ。こりゃあ初手で終わっている」

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将棋世界1994年7月号、谷川浩司王将(当時)の連載自戦記〔竜王戦1組 谷川浩司王将-羽生善治棋聖〕「何故、気が変わったのか」より。

 意表の二手目

 今年は久し振りに、5連勝と良いスタートを切る事ができた。

 そして6局目が羽生棋聖との竜王戦である。

 但し、敗者戦という事で新聞には載らない。羽生棋聖との対局は、千日手4局を含めると50局目だが、観戦記者がいないのは初めての事である。

 実際、竜王戦というのは敗者戦に回ると厳しい。本局に勝って、この日隣で対局があった塚田-福崎戦の勝者に勝って、最後に南-田中寅戦の敗者に勝たないと、本戦に進めないのである。 振り駒で先手番を握る。

 対羽生戦では、作戦を練ってきても無駄になる事が多い。

 例えば、▲7六歩△3二金、▲7六歩△3四歩▲2六歩△3三角―。

 本局も、真っ白な状態で盤に向かおうと思った。ある程度の覚悟もできているので、驚愕の1図を目前にしても、特に動揺する事はなかった。

羽生ヒール1

 飛車先交換の得

 2手目△3二金というのは、最近は年に何局かあるようだが、△6二銀というのは記憶にない。20年ぐらいさかのぼるのではないか、と思う。

 △6二銀に対し、一番つまらないのは▲6八銀。矢倉に進めてしまうと後手も飛車先不突にする事ができる。

 振飛車にするのも面白くない。

 とがめるとすれば、やはり▲2六歩であろう。これで、こちらだけ飛車先を交換できるのだが、それがどれだけ得になっているかは難しいところである。

 羽生棋聖の指し方は、相掛かり全盛だった戦前にもどったようだ。

 桂の捌き

 2図は26手目の局面。後手は5筋の位を取り、先手は棒銀で、△3三桂を強要している。

羽生ヒール2

 ▲5五角と歩を取れるようだが、△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△7六飛と取り返されるので、却って損である。

(中略)

 大きなミス

 前譜の△8八歩が意外だったのは、▲5四銀(6図)と打つ手があるからである。

羽生ヒール3

 こんな急所に利かされて、飛車を逃げているようでは負け。△5八銀不成▲6三銀不成△6七銀不成▲同金△5九角成(7図)で、一気に終盤戦に突入した。

羽生ヒール4

 だが、私は大きな間違いを犯してしまった。▲6三銀不成ではなく、成らなければいけなかったのである。

 ▲6三銀成なら、7図から▲4三歩成△同金左▲5五飛(C図)で、勝っていたのである。

 C図は△5四歩なら▲同飛△同金の時に▲2二銀で即詰み。△4四歩なら▲5一飛成で、駒を使わせて良い。

羽生ヒール5

 未練の指し手

 C図は▲5四銀に18分考えた時に想定していたのだが、▲4三歩成に△同金直と取られた時などでは不成の方が良いと思い、直前に気が変わってしまった。

 だが、他の変化を気にする必要はなかった。この将棋の終盤は、C図が全てだったのである。

 7図で12分、▲4三歩成を△同金左と取られて、22分。いくら考えても、もう遅い。7図以下は未練の指し手であった。

(中略)

(6図の一手前の局面で)私はまだ1時間9分残していた。その中から18分使って▲5四銀。

 ここは最後の勝負所なのだから、全部読み切ってしまうぐらいの意気込みがまければならない。反省の一局。

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後手番二手目△6二銀は、元奨励会三段の鈴木英春さんが開発した「かまいたち戦法」の出だし。

羽生善治四冠(当時)は、米長邦雄名人との名人戦を前にした毎日新聞のインタビューで「最近は特に意識して定跡形ではない将棋を指しています。定跡をまねする側から作る側に回りたい」(1994年4月7日付・毎日新聞)と語っており、名人戦第1局では5筋位取り中飛車を採用している。

羽生四冠の二手目△6二銀はそのような時期に指されたもので、谷川浩司王将(当時)に対して試してこそ、その戦法の成否が正しく導き出されるという背景があったのかもしれない。

竜王戦1組裏街道、ここで負ければ竜王挑戦への道は絶たれるわけで、非常に重要な一戦での二手目△6二銀だった。

ところが、指された谷川王将からしてみれば、「どうして自分の時に」と感じるのは無理もないこと。特に3月の上座・下座の件があったので、いろいろと思いが増幅してしまう部分もあったのだろう。

優勢に進めてきた局面での▲6三銀不成。普段の谷川王将だったなら▲6三銀成と着手していたわけで、二手目△6二銀が微妙に尾を引いていた形だ。

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羽生四冠は、この時戦っていた名人戦で名人位を獲得し五冠に、同じ年の竜王戦で佐藤康光竜王(当時)から竜王位を奪還し六冠となる。

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