将棋世界1995年3月号、鈴木輝彦七段(当時)の「矢倉中飛車の美学」より。
昨年の10月の終わり頃に、若手の郷田君から「どうして和服を着ないんですか」と質問されることがあった。
特に着ない理由はないのだけれど、ややめんどうに思っていた感は否めない。
「そうだね」と言葉を濁した感じで答えたのだが、「僕は将棋の文化として和服を残した方がいいと思うんですが」と郷田君は別の意志がある事を滲ませた。
対局の結果が服装で決まる訳ではないが、やる気と正比例する事は確かにあるかもしれない。自分にとっては、これが和服を着ない一番の理由だったような気もする。
ただ、郷田君の真意は、先輩にやる気を求めるよりも、純粋に将棋文化を考えての事だったと思う。
郷田君自身が、タイトル戦や公開対局等で経験して、和服の機能性や見た目の美しさに引かれての事だろう。いや、彼の事だからもっと深い考えがあったとも思えてくる。
ともあれ、後輩にいわれたのでは着ない訳にはいかない。秋以降できるだけ着物で対局するようにしている。
考えてみれば、棋士になって以来、原田先生ほどではないにしても、結構着物で対局してきた。そんな姿を見てきて、”持っているなら着てほしい”と思ってくれたのだろう。これが、全く持っていない先輩に言ったのなら、イヤミになってしまう。
最近はタイトル戦に出ると和服を作るようになるが、私が棋士になった頃は、直ぐに着物を作るのが一種のブームのようになっていた。
先輩の真部さんや青野さんの対局姿を見て、早く自分も和服で対局したいと思ったものだ。
その私の後から続かなかった事を思うと、魅力的でなかった対局姿に反省してしまう。
ただ、服装は本人の嗜好の問題で、強制されるべきものではなく、相手に失礼がなければ充分ともいえる。
加えて、和服を作れば、少なくとも4シーズン分が必要でお金もバカにならない。
そんなこんなで棋士の和服離れが起きているのだろう。
(以下略)
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将棋世界1995年2月号、東公平さんのシナモノエッセイ「着物」より。
昔、奨励会員はカスリ組と呼んだ。創設の時、集まった各棋士の内弟子たちに紺絣の着物を”制服”として着せ、ハカマを貸与して対局させたからである。この伝統を守って、かっこよく絣でキメていたのは北村昌男さんあたりまでだったと記憶する。強烈に印象に残っているのは、美男二上達也五段の夏の白絣姿だ。郷田真隆、行方尚史君あたりがリバイバルで見せてくれないか。
紺絣に袴は、昔の書生の典型的な姿であったと言われる。
川端康成の『伊豆の踊子』にも、
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。
という一文がある。主人公である「私」は一高生だ。
いろいろと調べてみると、紺絣に袴もさることながら、白絣に袴は、たしかにドキッとするほど格好いい。白絣だと書生風ではなくなるから不思議だ。
東公平さんが、当時の郷田真隆五段や行方尚史四段に着てほしいと思った気持ちは、とてもよくわかる。
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近年、若手がタイトル挑戦者になると着物を誂える。例外はシティー派の島朗八段くらいかと思っていたら「棋聖戦は和服で」と宣言した。竜王が三人いる「島研」では密かに着付けの研究会もやっていたのではないか。囲碁のトップ棋士には和服党が少ないし、ネクタイすら締めない人がいるが、勝負を再重視するなら、どんな対局場であろうと楽なキモノが得策だ。花村元司九段は、名人戦四ゼロで完敗した後「羽織袴で金屏風の前じゃ、私の将棋は指せんわ。浴衣でやったら大山さんにも負ける気はせんね」と笑っていた。着物が合わなくて集中力を欠いたエピソードは多い。明治の苦難時代、関根金次郎先生の遊歴話にもある。その関根十三世名人の威風辺りを払う姿に憧れて棋士を志したのが新潟の名門の御曹司、原田泰夫九段だ。
故・原田泰夫九段が10歳か11歳の頃、関根金次郎十三世名人を初めて見た時の印象が、将棋世界1971年11月号で語られている。
新潟市の「イタリヤ軒」で行われた将棋大会でのこと。
原田「その会場の奥のほうが一ヶ所黒山の人だかりで、それこそオーバーな表現でいうと大人のまたぐらをくぐってのぞくと、やや白ヒゲで紋付き仙台平のハカマで扇子を斜に構え、盤面を眺めるでもなく、人を眺めるわけでもなく悠然として座っているんですね。勝負をやる先生はどんなに目玉を三角にして指すのかと思ったら、そんなんでなく春風駘蕩とした姿。これにシビレたわけです。ああーこんな人間にあったことはない。ようーし俺も一つ名人になってやろーーとね」(笑)
原田泰夫九段のスピーチの序盤では、ほとんど必ず「関根名人の紋付きと仙台平」の話が出てきた。これが出なければ話が先に進まないというほどの序盤の定跡。関根名人の仙台平と聞くと、これから原田九段の面白い話、名調子が聞けるんだなと条件反射的にワクワクとしたものだ。
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徳川時代の家元(将棋衆)の制服は小袖形(今の和服)ではなく、僧侶や医者と同じ、いうなれば女性用のアッパッパ(わかります?)みたいな「十徳」である。
(中略)
厳密に考証すればいろいろ大変で、棋士という職名はなかったし、羽織袴着用は明治以後と思われる。
(以下略)
十徳は、江戸時代、公家でも武士でも農民でも町人でもない、学問・技芸を事とする文化人が着るものであったと言われる。
また、茶道の世界では現在でも、長い年月の修行を履んで家元や師匠の許しを得た人だけが十徳(の上半身部分)を着用することができるようだ。
そういう意味では、現在の棋士の和服姿は、将棋家元制が終わった以降に誕生した独自の様式ということができるのだろう。
「僕は将棋の文化として和服を残した方がいいと思うんですが」という郷田真隆五段(当時)の言葉がとても嬉しい。