村山聖五段(当時)の四角いジャングル(後編)

将棋マガジン1991年7月号、泉正樹六段(当時)の「囲いの崩し方」より。

☆続編、順位戦後の麻雀地獄!

 開始から5時間程経過。この時点で、聖君プラス7△円、パパ(野本先生)マイナス2△円、泉マイナス5△円という状況。

 そんな時(午後1時頃)聖君が予想だにしなかった、雀友が馳せ参じた。それは、ジュリーと五郎を+して2で割ったみたいな、いい男(僕の兄弟子、飯野六段)。

 兄弟子の登場を心待ちにしていた私。実はこんな苦戦の展開もあろうかと、朝8時にトイレに行くふりをして電話しておいたんだよ~ん。

 そしたら兄弟子、「おうマサキ解った。俺が襲いに行くまで、辛抱強くまってなチャイ」だって。

 兄弟子とバトン・タッチした私は、お金を取りに行くといって(追い出されたフシもある)3、4時間お家に帰って、グッ・スリープ。

 夕刻に戻ると、なんと、あれだけ好調だった聖君の勢いがおとろえ始めているではありませんか。

 はた目には一進一退の攻防戦だが、時たま、「おかしい、こんなはずじゃ」と首をひねる聖君の姿が鮮明に映し出されている。

 そうなのだ。ウチの兄弟子と打つと、まるで読みがトンチンカンになるのだ。「強きをくじき、弱きを助く」こんな表現が、ドン・ピシャなのが、我らが雀ヒーロー兄弟子だい!

 パパも兄弟子の登場で、秘技岩石(アンコ)落としが、ようやく功を奏する様になってきた。

 歯をくいしばる肉丸君、「あの~カツドンとオレンジ・ジュースをください」なんて注文しているから、やる気は未だおとろえをしらない。

 聖、復活の烽火を上げたい親番。7巡目にして、ホンイチ・白・ドラダラケの怒りのリーチ。持ち牌は東と中で、山に4枚もねむっている。

 必勝かと思っていたら、パパ、兄弟子から相次ぐ追っかけリーチ。

 それに対して、一発でつかんだのが4枚目の七筒で、なんと、パパのカンチャンと兄弟子のペンチャンにお見事一発放銃! 聖「よ、よ、弱い」と一言。ツキに見離され出すと、悪い事は得てしてかさなるもの。やがて、聖君の勝負感が増々よろめく事態がやってきた。

 やって来たのは、関東名物「雄叫び族」。植山五段、中田功五段、連盟職員のK氏というメンバー。おっと、唯一おとなしいA氏もいたっけ。

 なにしろ、そのうるささといったら、雀荘が揺すられる程。ロンの度にいちいち立ち上がり、「い・い・一発!!……」なんて、わめいている。初体験の聖君は頭を抱え「早く、動物園の飼育係でも呼んでよ」と思っていたら、幸いに、自動卓が故障して、雄叫び族は”おんも”へ放り出されてしまいました(A氏談)

 戦況の方は完全に兄弟子ペース。

 技術的には一番劣るはずなのに、おかちィ。午後11時頃には、「後はマサキにまかせた」なんてカッコ良く、健全END。

 残された戦の軌跡。さすがに、睡眠をとった私の優勢。パパはやや不利。聖君は苦戦という展開で、終わってみれば、兄弟子と、絶対負けない人(雀荘)の二人勝ち。

 麻雀なんて結局、あまり欲のない所に落ちつくものなのかも?

 そんな訳で、朝8時から始めた死闘も30時間たった次の日の昼過ぎにようやく終了。

 さすがの聖君も疲れた様子。と思っていたら、ブツブツ訳の解らない事を言っている。良く聞いてみると、「ハア、しんどいスけど、あと10回ぐらい打てれば大丈夫なんですけど……」だって、あービックリした。

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元・近代将棋編集長で、当時は将棋世界編集部の中野隆義さんから、昨日の記事にコメントをいただいた。

 村山流とは、一緒にお酒を少しとマージャンを少し以上したことがありました。危険ハイをブンと場に打ちつけると同時に顔が45度くらいかしがるのがクセで、最初のうちはかわゆいクセだなとのほほんと思っていましたが、そのハイを通してしまうとしばらくしてロンと言われ今度はこちらの首が90度くらいひん曲がってしまうことになるので、村山流の首がグイとかしがってくると、ひえーっと心の中で最大級の警戒警報を打ち鳴らしたものです。
誰にでも命の持ち時間というのはあるのだけれど、それを意識しないで生きている時間のほうが誰しも長いものです。村山流と一緒にいると、ああ、村山にもあるけれど、俺にも、いや誰にだって持ち時間はあるんだよなと思うのでした。
野本流呼び出し事件の原稿を当時見たとき、なして俺に電話してくんなかったのだろう、夜中だろうがなんだろうがすっ飛んでいくのにと、不満半分不思議半分思ったのですが、今にして思えば、「一般人のおいちゃんを呼んで大怪我させちゃ可愛そうだ」と泉流は思ったのでしょう。
丸田流は、マージャンを一晩打つと7~8割のハイの背中を覚えたそうです。「全部覚えようとすれば覚えられるのだけれど、そんなことしてもしょうがないからしないんだよ」と仰るんで、は??? という顔をしましたら、「覚えようとして覚えてるんじゃなくて、やってると自然にそのくらい覚えちゃううんだよ。自然に覚えちゃうもんはしょうがないだろ」と、聞かされて、鈴木輝彦流ではありませんが、めまいがしたものです。ただ、覚えていれば必勝かというと、そうでもない場合も多く、ヒラで打っても強い者がある程度のハイの背中を覚えていると有利になることがままあるということのようです。
丸田流とも何回か打ったことがありますが、とにかく場にきついハイがほとんど出てこない・・・・んで、あれっいつも降りているのかな? という感じです。ときどき、強いハイが一つ二つ出てきたかと思うと、それは村山流が首をかしがらせたあとに起こることがドーンと起こっちゃうのでありました。おー、こわ。

昔、中野さんの家へ朝の7時頃、故・小池重明氏から麻雀の誘いの電話があったことがあるという。

面子が違えど、やはり同じような背景があったのだろう。

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私が麻雀を覚えたのは大学1年の時だった。

阿佐田哲也「麻雀入門」のような本も買って読んでみた。

技術書に近いものだったが、麻雀のアマ初段クラスになるまでには、遊びや勉強の時間を削らなければならないなと感じた。

将棋をやっていたから良かったというか、将棋の初段クラスになるまでに、どれほどの勉強量と犠牲が必要かを肌で知っていたので、麻雀にのめりこむことはなかった。

大学時代は付き合い程度、社会人になってからはもっと回数が減った。

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ところで、30時間の麻雀。これは順位戦の翌日の朝8時が起点となっている。

村山聖五段はその前が順位戦→焼肉→麻雀だったので最低でも54時間以上起きていたことになる。

ものすごい集中力だ。

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泉正樹七段は、叫び声に関して、関東雄叫び族とは一線を画していたようだ。

この頃はまだ、野獣流の「ガオーッ」という雄叫びをあげていない時代だったのかもしれない。

泉七段の「ガオーッ」がいつ頃から始まったのか、今後の研究テーマとしてみたい。