団鬼六さんが参加した将棋ペンクラブ交流会

近代将棋2002年8月号、団鬼六さんの「鬼六面白談義」より。

 4、5年前に患った脳梗塞が再発した、ということで3日に一度ずつの割で点滴を受けるため付添人付で病院に通っている。

 それをやらないと即入院をいい渡されることになるのだ。脳梗塞とは脳の血管が詰まる病気で脳内出血でもしたら、ハイ、それまでになるから注意が肝要である。この病気の自覚症状としては物忘れが激しくなることで、ますます激しくなると痴呆状態となり、いわゆるボケ老人になると思われるが、幸いながらまだそこまでには達していない。もの忘れがひどくなるということも考えようによっては助かる場合もあって、都合のいいことは覚えているが都合の悪いことはすぐ忘れるという特典がある。

(中略)

 そういえば、3日前だったか将棋ペンクラブの交流会に出席するため、将棋連盟に出かけたことを思い出した。自宅から千駄ヶ谷の将棋会館につき、4階の対局室へ向かったが何で私が将棋ペンクラブの交流会に出かけて来たのかこれがエレベータに乗った途端にわからなくなってきた。

 私は2年間ほとんど将棋らしいものを指していない。脳が痺れるから、と医者からも脳を酷使するゲームなどほどほどにするようにと止められている。会場に入ってこの交流会の幹事、湯川博士に出会ってやっと思い出した。

「ジェームス三木さんはNHKの仕事で目下カンヅメを喰らって身動きが出来ないらしいんです。改めてお会いしたいということでした」

 湯川はジェームス三木のメッセージのようなものを私に見せていった。

 そうだ、この著名なシナリオライターとここで出会えるかも知れぬと思ってやって来たことを私は思い出した。

 以前、湯川の妻君、湯川恵子と出会ったとき、ジェームス三木が将棋ペンクラブの会員で交流会には将棋を指しに来るといったから、ぜひ、紹介の労をとってもらいたいと頼んでいたのだ。というのは私の原作による『およう』の映画製作をした横畠プロデューサーが第2回目の制作映画を『真剣師・小池重明』に決定し、このシナリオ第1稿を私の家に届けて来た。このシナリオライターは若手だがかなりの仕事をしている人間で、原稿に惚れ込みましたと私の所にも挨拶に来たが、正直いってシナリオに面白味が感じられない。何故かと思ったらこのシナリオライター、全然、将棋がわからないのである。将棋が主題になっている映画なのにシナリオライターが将棋がわからないのではどうしようもない。

 そんな時に湯川恵子からジェームス三木は将棋愛好家であることを聞き、ひょっとしてペンクラブの交流会で会えるかもしれない、会えばシナリオの件、頼んでみようかと思って家人の留守中に一人で家を抜け出して来たのだ。

 それで将棋会館に着いた途端、かなりの疲労を覚えて同時に、俺は何しに将棋ペンクラブの交流会にやって来たのか、と、一瞬、ボーッとなって忘れてしまうのだから、やっぱり多少、脳がいかれていることはたしかなようである。

 ジェームス三木に会えなかったのは残念だったが、しかし、越智信義さんとか、長田衛さんとか、旧知の人達に次々に出会えたことは嬉しかった。でも、顔を見合わせて最初声をかけられてもこっちはすぐに誰が誰だか思い出せない。名刺をもらって、皆こういうことがありましたね、と説明されてようやくこちらは思い出すのである。

 湯川博士が私が将棋ペンクラブの生い立ち、経歴というものをすっかり忘れていると思ってその経緯について私に説明し始めた。もともと団先生が河口七段や東公平さん達と一緒に始められたものですよ、観戦記大賞とし随分と賞金を出したじゃありませんかと、彼にいわれてそんなことがあったっけなとぼんやり過去の風景を思い出そうとしてみる。

 脳梗塞というものは記憶の風景が断片的に万華鏡のように膨らんだり萎んだりするみたいで、将棋ペンクラブを作ったのはたしかに河口七段であり、彼が多忙になってきたので途中で会長を降りて誰か他の人に会長の座を譲ったことを思い出した。

(中略)

「今の名人は誰だっけ、森下だったか、森内だったか」

「森内俊之ですよ。本日の将棋会の成績優秀者に森内名人からの色紙が出ます」

 丸山名人とか森内名人とか聞き慣れない名の名人が増えてきて困ったものだと思うことがある。羽生が名人になって驚いた当時が懐かしい気さえする。中原名人時代はもう遠い昔になってしまったのか。将棋ペンクラブの会員達に最近の将棋界のことを聞かれても、ただ、へえぇ、へえぇ、と無気力な受け答えしか出来ない自分がもどかしくなり、

「それより一局、将棋を指させてくれないか」

と、世話人に頼んで弱い相手を選んでもらった。

 三段という会員と対戦してみると久しぶりだが、うまく指すことが出来て、快勝。もう少し強いのを、と希望すると私の前へデンと坐ったのがカメラマンの弦巻であった。

 河口さんも中原さんも何時の間にかフリークラス、そして、ほとんど口をきいたことのない若手の丸山に次いで森内が名人になるという寂寞とした時代、すっかり時代が変わったように思うがちょっとの間の出来事であったように思われてならない。

 世の中というものはあっという間に変遷を遂げるようだ。閑吟集の中に私の好きな唄がある。

―世の中はちろりに過ぐる、ちろり、ちろり―

 ちろりとは素早さを表す擬態語だが、無常感を現している。ちろり、ちろり、と素早く棋界も変貌を遂げ来たのだ。しかし、弦巻カメラマンのヘボ将棋はちろりとも変貌を遂げていないので驚かされる。電気将棋の悪影響を受けて指し手が感電したように硬直しているのだ。

 とにかく将棋ペンクラブの交流会に初めて出席し、ヘボとはいえ二人を討ちとったことは嬉しかった。打ち上げの席にも居残ってビールをがぶ飲みする。

 医者に禁酒をいい渡されているのだが脳梗塞とはいえ、弦巻を簡単にのし上げたのだから飲まずにおられようか。付添人がいないので一人、会館を出てからタクシーに乗って新宿のゴールデン街に向かった。

 世の中はちろりに過ぐる。ちろり、ちろりといい気分であった。

——–

団鬼六さんが、「世話人に頼んで弱い相手を選んでもらった」と書いているが、世話人とは湯川博士さんのことで、弱い相手とは私のこと。

事の顛末はこうだった。

団鬼六さん「それより将棋を指させてくれないか」

湯川博士さん「長考せずにすぐに指す弱い奴がいますから、そいつがいいでしょう。 おーい、森君」

湯川さんが2メートル離れたところにいた私を呼んだ。

弱い奴というのは気になるが、たしかに私は早指しなので、こういう場合の相手としては良いかもしれない。

「御意」という感じで湯川さんに顔を向けると、湯川さんの目が一瞬、「間違っても勝つんじゃないぞ」と光ったような気がした。

早速対局開始。

間違っても勝たないようにするというのもなかなか難しいので、終盤の入り口までは気を抜かずに指すことにした。そもそも私は普通に指していても終盤で逆転されることが多い。

 

しかし、そのようなことを考えたのは全くの時間の無駄だった。

団鬼六さんは想像を絶するほど強く、終盤の入り口どころか中盤で、私の美濃囲いは上部から攻められ壊滅状態になってしまったのだ。

「 三段という会員と対戦してみると久しぶりだが、うまく指すことが出来て、快勝」と書かれている通り、団さんの圧勝だった。

当時、近代将棋のこの号が出て、「ヘボとはいえ二人を討ちとったことは嬉しかった」という文を見た時、私は笑いが止まらなかった。

団さんにヘボと書かれて、可笑しかったとともに嬉しかったのだ。

そういう意味では、私にはマゾの気配があるのかもしれない…