将棋世界1994年8月号、浦野真彦六段(当時)のリレーエッセイ「待ったが許されるならば……」より。
徹夜で麻雀をして、通勤ラッシュに逆らって帰る。
マンションの入口で顔見知りの奥さんが数人立ち話をしている。制服を着た子供も一緒だ。どうやら幼稚園の見送り時間だったらしい。
「あら、お早うございます」
と声をかけられる。ちょっとはずかしい気分になる。
この時間に帰宅するのはやめにしようと思う。
東京からの帰り道での事。
新大阪駅に着く。大阪駅への乗り換えを目指し早足になる。ホームに電車が止まっている。急いで階段を駆け降り、なんとか間に合う。発車してすぐにアナウンスがあった。新快速京都方面行きだった。どうやらホームを間違えたらしい。
駆け込み乗車はやめようと思う。
3歳になったばかりの息子を誘って、スーパーへ買い物に行く。
支払いをすませ帰ろうとしたら、息子がだだをこねだした。
「だっこして」
困ったやつだ。
「お父さんは荷物を持ってるからね、だからだっこはできないよ」
と説得するが聞き入れてくれない。
「だっこしてエー」
もう一度言って、彼は床に仰向けに寝ころんだ。
連れてくるんじゃなかったと思う。
我が町、千里山は桜がきれいである。
今年も花見を楽しみにしていたのだが、仕事で3日程大阪を離れた間に満開になり、しかも大雨で散ってしまった。
がっかり。
昼食を食べるため外出する。
駅前にとてもおいしくて値段も手頃なランチを出す喫茶店があるのだ。
12時45分頃、店に着く。
「すいません、売り切れたんです」
残念。あと10分早く家を出てくればよかった。
3時のおやつにコーヒーを入れる事になった。
冷蔵庫から豆を出すと1人分しか残っていない。3人分入れるのが我が家の定跡なので、買い置きの豆を出す。豆の種類は違うが、まあいいや。ナントカブレンドにカントカブレンドを混ぜる。
大失敗。
歯医者へ定期検診に行く。
奥歯に虫歯があるらしい。
「だいぶ悪いんですか」
こわごわ尋ねる。
「削って埋めないといけませんね」
聞いているだけで痛く思えてくる。
もっと真面目に歯を磨いておくんだったと反省する。
今日からはちゃんと歯を磨こう。朝帰りをしてどんな疲れていても、歯だけは磨いてから寝る事にしよう。
固く心に誓う。
ある朝起きると右目が開かなくなっていた。
さっそく眼科へ行く。結膜炎だった。
「家族の方にうつるといけませんから、タオルは別にして下さいね」
という先生の教えをしっかり守る。
数日後。家族にはうつらなかったが、自分の左目にうつってしまう。
冴えんなあ。
女房がつらそうにしている。
心配になり聞いてみると、肩こりがひどいと言う。気の毒に思い、肩をもんであげる。
以後、日課となる。
家族3人でマンションのモデルルームへ見学に行く。
気に入ったので申し込む事にする。
抽選の日がきた。一日中ソワソワして過ごす。結果は落選。
まあ、次があるさ。
女房と将棋を指す。手合は六枚落。
女房は連盟の女性教室で優秀な先生に教わっていたので飛車が成るまでは完璧なのだが、終盤に難点がある。
ニュースステーションを見ながら相手をしていたが、眠くなってきたのでミスをとがめて下手玉を詰めてしまう。
なんとなく女房の機嫌が悪くなる。
勝つ事はエライ事だ、と思う。
こうして春は過ぎてゆく。
僕は春が大好きだ。ホッとした気分とよーしという思いがバランスよく湧いてきて心地いい。少々の失敗をしても、嫌な事があっても、アハハと笑えば解決してしまう。
来年の春は満開の桜が見れるといいなと思う。あとは家族3人元気でいられたら言う事はない。
そう、それで充分だ。
——–
浦野真彦六段(当時)の、日常の「待ったが許されるならば」の数々。
特に結膜炎の話は絶妙で、声をあげて笑ってしまいそうになる。
「冴えんなあ」は森信雄七段の口ぐせだが、このようなケースにもピッタリだ。
そして、全編に溢れる家族を思う温かな雰囲気。
——–
しかし、よくよく深く読んでみると、後半、特に奥様の肩こりの話は、のろけ話と言っても良さそうだ。
過去の記事を調べると、浦野真彦八段が奥様のことでのろけているシーンがいくつか見受けられる。
新婚当時→「詰将棋サロン」の影のボスたち
谷川浩司名人に→谷川浩司名人(当時)「この男、将棋で負かした上に何の話があると言うのだろう」
とても微笑ましい。そして、うらやましい。
奥様のエピソードも面白い。
——–
(浦野八段の著作)