阪田三吉の憂鬱

将棋世界1973年1月号、故・五味康祐さんの随筆「ターチャンのこと」より。

 中学2年(昭和10年)ごろ、北野中学生でターチャンという友人がいた。大阪で北野中学といえば秀才の学校である。ターチャンは西郷隆盛みたいに図体が巨きく、眉は黒々と太く、堂々として大人物の風格があった。当時大阪上本町8丁目あたりに住んでいたようにおもう。

 これが坂田三吉の息子であることは、こちらは小説家になるまで知らなかった。そういえば三吉翁とも一度、上本町の自宅で会ったことがあるが、坐高の低い、髪の白くなってションボリした老人という印象しか私にはない。『王将』で描かれた奇人のおもむきは、少なくとも私の見た坂田三吉とは別人の観がある。むしろそれが将棋指しとは、中学生の私が知るわけはなかったし、

(なんや貧相なおっさんやなあ)

ぐらいにしか思わなかった。今でも印象深いのは、ターチャンがこの実の父に大へん乱暴な口をきいたことで、およそ北中の優秀な生徒とは思えぬ父権をないがしろにした面罵に、驚いたのをおぼえている。これはターチャンに限らず、彼の姉妹も同様で、家庭にあっては、だから淋しい父親ではなかったかとおもう。

 ターチャンと知り合って1年ほどして、上本町から彼等は天王寺区勝山通りの近くに移転した。そこへも私は遊びに往ったが、

「親父にこの家の敷居はまたがせないんだ」

とターチャンが言ったのを忘れない(もしかすればその移転先を父親には秘していたのかも知れない)。理由は、どうやら坂田三吉の女性問題らしかったし、映画や芝居で有名なあの「女房の小春」は、この時点は亡くなっていたのかとおもわれるが、それにしても、私の知る坂田三吉の実像は『王将』のそれとは、ずいぶん違う。

 ターチャンとはその後、一、二度逢ったきり、どちらも疎遠となってとうとう消息を知らぬままに終戦をむかえた。15、6年前、私は升田九段と親しくしていた時期があって、九段にターチャンのことをきいたが、戦後も無事という程度のことしか分からなかった。ターチャンのことは『文藝春秋』でも一度、書いたことがあり、拙文が目にふれたら何か連絡があろうかとも期待したが無駄であった。彼はもう私のことなど忘れているのかも知れない。

 当時はどちらも腕白ざかりで、いろいろな遊びをした。でも将棋だけは一度も指したことがない。さすがに彼に家には立派な将棋盤と駒のあったのをおぼえているし、そういえば初めて私が坂田三吉と会ったとき、三吉は盤に対して指し手の研究をしていたようにも想うが、この記憶はさだかではない。

 昭和10年ごろといえば南禅寺の歴史的なあの対局のおわった時かどうか、その辺も年譜が手許にないのでわからない。ターチャンには一人、ぽっちゃり色の白くて美しい妹がいて、彼女を見るたびにこちらは思春期のあやしいときめきをおぼえたのも今では遠い、夢のような話である。私の記憶では坂田三吉は中肉中背だったようにおもう。それがターチャンのごとき巨漢の息子をもったのは、ちょうど「中肉中背」の大石内蔵助に、「弁慶もかくやと思える大男」の大石主税がいたのと同様、もしかすれば、女房の小春は、内蔵助の妻のように大女ではなかったのかと思われる。勿論これも想像話であるが、事実そうなら、二人はノミの夫婦だったわけで、『王将』に描かれる小春の可憐さは一層、妙趣を増すことになろうか。

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私が将棋に熱中し始めた中学2年の12月、NHKで北條秀司作、新国劇の『王将』が放送されて、ボロボロ涙を流しながら見たものだった。

当時の私の頭の中では、阪田三吉=辰巳柳太郎だった。

この五味康祐さんの随筆は、それから1年後に将棋世界に掲載されたもの。

「なるほど、人にはそれぞれ、いろいろな事情というものがあるんだなあ」と思ったことを覚えている。