将棋世界1994年6月号、三浦弘行四段(当時)のリレーエッセイ「待ったが許されるならば……」より。
高校二年生の時、クラスに学生にしては珍しく、非常に将棋に興味を持つ、アマ初段の生徒がいました。
彼は、当時奨励会二段だった私と、同じクラスになった事を非常に喜んでくれました。
私は彼にせがまれ、休み時間や放課後に将棋を指しました。はっきり言って、彼は初段の力などなく、恐らく六枚落ちでも私の方が勝つような感じですが、彼はいつでも平手で指したがりました。クラスの皆の手前、どうしても平手で私に勝ちたかったのでしょう。
今にして思えば、この時は将棋普及のチャンスでした。クラスの皆が少しずつ将棋に興味を持ち始めたので、そういう人達と指したり、あるいは、頑張ってもう少し早く四段になり、例えば、NHK杯などに出場していたら、もっと将棋の面白さを分かってもらえ、今頃、将棋世界の購読者にねっていたかもしれません。しかし、当時は将棋が不振で、少しだけ学校の成績が良かった私は、大学進学という下手な色気を持ち、将棋に対する気配りが出来ませんでした。
この頃は、将棋の成績が悪い時は、高校を中退して、将棋にもっと打ち込もうと考えたり、将棋を断念して学校の勉強を頑張ろうとしたり、気持ちが大きく揺れ動いたものでした。
私の力不足で、クラスの皆に、将棋の面白さを伝えられなかった事は返す返すも残念です。
そして、今までの中で最大に待ったを許されたい事、否、恐らく生涯残念に思いそうな事があります。
それは、故大山先生に一局でもいいから将棋を教えて頂きたかった事です。
しかし、大山先生が亡くなられた時、私は三段だったため、それは無理な話というものです。教えて頂くのが無理なら、せめて記録を取っておけば良かった。
何故このような後悔をしているのかと言えば、奨励会の対局以外、将棋連盟に顔を出す事などほとんどなかった私は、同じ世界に身を置いておきながら、大山先生の素顔を直接拝見した事がなかったのです。
二年前に亡くなられた時も、何か遠い世界の人のような気がして、余りピンとこなかったのです。
しかし、棋士になって、沢山の方々と知り合い、自然に大山先生の話を聞く機会が増えるようになって、改めてその偉大さが、しみじみと伝わって来ました。
何と言っても、ガンの手術後、皆にAクラス降級の心配をさせながらも、一度は名人に挑戦し、二度目の手術では、直後に三連勝し、プレーオフに持ち込むなど、並みの精神力ではありません。
それよりも素晴らしいのは、生涯現役を貫き通し、しかも亡くなられるまで第一人者を続けられ、棋士としての御本懐をまっとうされた事です。
私も棋士になったからには、大山先生の生き方に出来る限り近づいていきたい、一歩でもその領域に触れてみたいと切に思っています。
そして、つい最近、またもやとても残念な事が起きてしまったのです。それは私の大師匠の佐瀬先生が亡くなられた事です。滅多に人のことを尊敬しない私の父でも、あれだけの門弟を抱えられた心優しい佐瀬先生を心底尊敬しておりました。そのため、亡くなられたと聞かされた時は非常に残念そうな顔をしていたと母に聞かされました。
私自身も、通夜の席、葬儀の席では、なかなか亡くなられてしまったのだという実感が湧きませんでしたが、出棺され荼毘に付される時、急に悲しみが襲って来たのでした。
「嗚呼、これで優しかったあの先生のお顔をもう見る事は出来ないのだ」とはっきり思い知らされた気がしました。
人間とは皮肉なもので、亡くなられてから初めて、その人の偉大さが分かるという事があることを改めて知りました。
今、思い出されるのは「康夫君(私の父の名)は見込があるので、このまま頑張って、いつの日かタイトル挑戦を狙って下さい」と書かれた今年の年賀状です。先生の御病気を知らず、父と私の名前を勘違いされているという程度にしか思いませんでした。アマ四段の父は、間違われていると知っていながらも、とても嬉しそうな顔をしていました。
お通夜の当日は、一晩中、一門の方達と将棋を指しました。きっと先生は、にこにこしながら見ていて下さったと思います。先生、どうぞ安らかにお眠り下さい。
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昨日、三浦弘行九段が結婚をしていたことが報じられた。
→将棋の三浦弘行九段、17歳年下女性と結婚していた(スポーツ報知)
スポーツ報知のスクープ記事。
きっと、三浦九段が、記事にしても構わないと、親しいスポーツ報知の北野新太記者に打ち明けたのだと考えられる。
上戸彩さん、松たか子さんは16歳年上の夫、西島秀俊さんは16歳年下の奥様、笹野高史さんが17歳年下の奥様、三谷幸喜さん、松本人志さんが19歳年下の奥様と、近年では歳の差が開いている結婚が多い。
今日の随筆に滲み出ているような三浦九段の人柄、魅力を奥様は十分に理解してくれているのだと思う。
本当に、おめでとうございます。