将棋世界2004年5月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第2回 居飛車党と四間飛車党は別の人種である」より。
四間飛車が嫌いだ!
お互いを理解しあえないのは、男と女だけではなかった、という報告である。もともと私は四間飛車党を、同じ将棋を趣味とする人間とは認めていなかった。
何より四間飛車のズルさが許せない。居飛車の攻めを待ってるだけで自分から仕掛ける手順はほぼ皆無。△4二飛の上に△4三銀が乗ったあんな重い形でじっとしているふざけた戦法が、ほかにあるか。(藤井システムは居飛車が角道を止めたときだけ成立する特殊戦法である)
さらにその精神構造が理解できない。居飛車が急戦でくるのか穴熊なのか、やってみるまでわからないのだ。これから指す一局をどんな展開にするか相手まかせなんて、いい加減にもほどがある。
なぜ彼らは四間飛車を指すのか?
「そりゃ美濃囲いがかっこいいからですよ。ほら僕、名前がミノでしょ。子供の頃から、美濃囲い、ミノ、カッコイイ!と思って」(東京都在住の三野正勝さん)
そんな連中に、四間飛車のある重大な欠陥を突き付けてやろうというのが、今回の調査のそもそもの目的だった。
「初歩」の本に書かれた欠陥
松田茂行八段著『初歩の振飛車戦法』(日東書院)。初版は昭和48年。振り飛車党を志した紅顔の美少年をアンチ四間飛車に転じさせた運命の一冊である。
その四間飛車の章に、いわゆる▲4五歩早仕掛け作戦が解説されていた。読者にもおなじみの▲4五歩と仕掛けて▲4四歩△同銀とする順のあと、松田八段は▲4五歩の決戦より、▲4六歩(1図)と控えて打つ手を推奨しているのだ。
「これは、▲4七銀~▲2九飛と陣形を強化してから▲4五歩を突こうという手渡し戦術です。しかし、手を渡された後手には有効な攻めも、さばきもありません。つまり、待機の姿勢しかないのです」(解説を要約)
なんだよ、それ……。
「待機しかない戦法」に大きく失望した少年はやがて、ある悪知恵を思いつく。
だが、相手に怒られそうなので実戦で試す勇気はなかった。定跡書やプロの棋譜で見ることもないまま、歳月は過ぎる。
出っ腹を揺すって中年男がテレビにかじりついたのは、30年後のことだった。
出た!淡路システム
淡路九段が△6四歩と控えて打ったとき、かすかな期待に胸が高鳴った。はたして淡路九段は2図まで組み上げてから、△8三飛~△8一飛とひたすら飛車の上下運動を繰り返し始めた。
で、出た~っ!昨年8月3日放送のNHK杯、中村修八段VS淡路仁茂九段戦。先手中村八段の四間飛車に対して後手の淡路九段がみせたこの「手渡し戦術」こそ、『初歩の振飛車戦法』を読んだ少年の頭をかすめた「悪知恵」だった。
千日手模様に苦しむ中村八段は3度目の△8三飛にあえて▲2七銀と玉の横腹を開けた。その瞬間、△8六歩からの攻めが炸裂し、淡路九段の快勝譜となった。
解説の井上慶太八段いうところのこの「淡路システム」は、当時「老獪」などと評されはしたが注目は浴びなかった。だが老獪なんて冗談じゃない。これこそは待機しかない老獪きわまる戦法の根本的欠陥をつく、若々しい覇気にあふれた作戦に違いない。淡路九段は狙っていた。先手四間飛車など、千日手になるだけのバカげた戦法だと暴露する機会を―。
「その場の思いつきですわ」
あれ、そうなんですか?電話口の穏やかな声に椅子からずり落ちかける。
「相手が先崎さんだったらやりませんでした。少々無理でも、えいやっと暴れられると、玉が薄いから自信がない。中村さんには悪いけど、慎重な人やったら短時間の将棋で打開するのは大変やろうと思ったんです。先手だから千日手にはしにくいし。そういう意味では、心理的なハメ手みたいなもんかなあ。ズルイといわれても仕方ないかもしれません」
あああ先生、ズルイなんて……。
「真似する人もいないから、評価されてないんでしょう。やっぱり去年僕がやった相居飛車の一手損戦法は、青野さんが真似して流行しましたけど。手損してもいいという発想は同じなんですがね」
最近、手損戦法がブームノプロ棋界においても、淡路システムの露骨な手渡しにはさすがに抵抗があるということか。
だが問題は、30年前の初心者向けの本に書いてある作戦に対する答えすら用意していない四間飛車の側にある。
そうではありませんか?
と、いきなり『初歩の振飛車戦法』を見せられた中村八段もいい迷惑だが。
「いやーっ、こういう急戦形は、じつは知らないんですよ。私だけじゃなくほとんどのプロが。田中(寅)先生がイビアナで勝ちまくったあとプロになった棋士は急戦を研究する必要がなかったんです」
居飛車穴熊の出現はそれほど革命的だった。反面、四間飛車が先制攻撃を狙う立場に回ったため、みずから動けないという欠陥が隠れてしまったのではないか。
だが半年ぶりに2図に向かった中村八段は、しばし検討したあとでいう。
「今度やられたら、打開できそうだな。▲5五歩△同歩▲7五歩として、△同歩なら▲5五銀から▲7四歩。うーん、なぜこうやらないかなあ」
あれ淡路システム敗れたりですか?だが中村八段は、先手四間飛車を千日手に追い込む手段がほかにないか、いろいろと考えてくれた。居飛車が右玉にして棒金、なんて珍形も出た。結論はどれも実戦でやってみなけりゃわからない、だったが、十分可能性はありそうだった。そもそも、こんなことを真剣に考えたプロはほとんどいないだろう。
さらに中村八段はこう告白した。
「じつは、もう四間飛車はやめようと思ってるんです。ええ、居飛車に戻します。本当は対淡路戦に負けたときにそう思ったんです。知らない形にされると、とっさに対応するのが難しいので……」
かつて居飛車で王将のタイトルも取った棋士に受け身の戦法はやはり合わなかった、と見るのは勝手すぎるだろうか。
理解を超えた「四間飛車魂」
決戦の日はきた。わが30年の疑問をぶつける日が。さあ、どう答える。現代四間飛車党の総帥、藤井猛九段は―。
のっそりとした威圧感に対面した瞬間、一杯引っかけてくるのだったと後悔したが勇を鼓し、声を震わせながら私の”ここが嫌いだ四間飛車”をぶちかます。
「ズルイ?たしかにズルイかもしれません。ズルイと思って相手がカッカしてくれればありがたいくらいです。そんなことは疑問に思ったこともない」
総帥は、まったくよどみがない。
「気持ちがわからないというなら、居飛車党の気持ちこそ僕にはわかりません。以前、島さんが何かの原稿に”振り飛車は相手が何をやってくるかわからないから自分は指す気がしない”とお書きになっているのを読んで、ホーッ、居飛車の人はそういう考え方をするのかと驚いたことがあるんです。
なぜなら僕は四間飛車を、よほどのことがないかぎり指せるわけです。相振りとかを別にすれば。でも居飛車党は、自分が先手のときは矢倉しかやらない人でも、後手のときは相手が▲2六歩としたら△8四歩と相掛かりにする。絶対に勝ちたい将棋でふだんやらない戦法をやるほうが僕には不思議でならないですよ」
う、なにか説得力がある気も……。
「僕は最初に読んだ本で、美濃囲いが断然かっこいいと思った。でも、舟囲いのほうを選ぶ人が世の中にはいる。これもいまだに不思議でならないことです」
この人もミノカッコイイ派だった。
だが、次の質問は好き嫌いではすまない。四間飛車が自分から動けないなら、先手四間飛車は論理的にダメなのでは?
「ふふっ、そういえばこの間もらった新しいソフトと指してたら、こんなことをやられたんですよ。僕が先手です」
藤井九段が並べたのが3図である。
「こっちがここまで組む間、△8一飛~△8三飛をずっと繰り返したんですよ」
なんと!まだ淡路システムの話をする前である。で、どうしました?
「頭にきて、来るなら来いと▲5八銀~▲4九銀と隙をつくってやったら、本当に大苦戦するハメになりました(笑)」
では藤井九段でもこうされたら打開は難しいということですね。だったら実戦でこれをやられたらどうするんですか。
「千日手にします」
えっ、だって先手番ですよ?
「すみませんが次までの宿題にします、といって千日手にします。そのあと後手番でねじ伏せるだけのことですから。
だいいち、この局面(3図)は研究する気がまったく起きませんね。千日手にされてもべつにくやしくない。自分の将棋人生には関係ない局面です」
私の30年はバッサリ斬り捨てられた。藤井システムの数理的なイメージからかけ離れた、三野さん顔負けのクレージーな四間飛車オヤジがそこにいた(★注1)。
「このところ勝ってないからいろいろな方がアドバイスくださるんですが、”ゴキゲン中飛車は優秀なのに、なぜやらないの”といわれたときは、カチンときました。こっちは優秀かどうかで戦法を選んでない。指してて楽しいかどうかなんだから。いい悪いは二の次なんです(★注2)。最近は居飛車党でも四間飛車を指す人がふえましたが、戦法の好き嫌いがないっていうのがまた、僕には不思議です。しかも、にわか四間飛車党が結構いい味出すんですよ(笑)。でも、こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない」
私は急に心配になった。四間飛車党の読者にとっては藤井九段の話は「へぇ」でも何でもないのではないかと。だとしたら申し訳ないが、私などはあまりの考え方の違いに、あの四間飛車への敵愾心が、きれいさっぱり消えてしまったのだ。
いつか先手四間飛車を千日手に追い込む手法が発見されても、生粋の四間飛車党ならいうのだろう。それがどうした?後手四間で勝てばいいのさ、と―。
★注1:ぼくはオヤジじゃないよ!(藤井九段談)
★注2:こういう発言があるとゴキゲン中飛車やりにくくなるなあ。そのうち指すかもしれません(藤井九段談)
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藤井猛九段の名言「でも、こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない」が世に出るきっかけとなった歴史的な記事だ。
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四間飛車はプロ、アマチュア間では最も多く指されている振り飛車戦法であり、最古の棋譜とされている初代大橋宗桂-本因坊算砂戦も居飛車対四間飛車。
大山康晴十五世名人の最も得意とする戦法も四間飛車だった。
藤井猛九段を含め、森安秀光九段のダルマ流四間飛車、佐藤大五郎九段の最強四間飛車、小林健二九段のスーパー四間飛車、櫛田陽一六段の世紀末四間飛車、鈴木大介八段の四間飛車、窪田義行六段の四間飛車など、四間飛車を核としている振り飛車の名手は多い。
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一方、振り飛車の神様と呼ばれた大野源一九段は、四間飛車は捌きづらいということで、四間飛車の採用率は高くない。(大野流は三間飛車>中飛車>向かい飛車>四間飛車の採用率)
振り飛車の基本的な方針は、
居飛車側から攻めてこなければ駒組みをどんどん充実させますよ(美濃囲い→高美濃→銀冠)→居飛車から攻めてきたら反撃。
大野流の考え方は、
居飛車側から攻めてこなければ振り飛車から攻めますよ→居飛車から攻めてきたら反撃。
この方針の違いがあるのだと思う。
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私も振り飛車党だが、実は四間飛車はほとんどやったことがない。(最近の角交換四間飛車は何度か指している)
いつの日か、四間飛車の楽しみを味わってみたいと思っている。