佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」

将棋世界2004年6月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第3回 森内の将棋は羽生のチェスで変わった」より。

「日本人じゃない」

「あの二人にはついていけません。顔が合えばポーンがどうしてナイトがどうしたとか話し込んでいる。私にはチェスの棋譜などまったく頭に入りませんが」

 自身もかなりのチェス好きであるはずの佐藤康光棋聖は、半ば呆れ顔でいう。

 本誌昨年3月号「棋士たちの真情」で佐藤棋聖が松本治人氏の取材に答えて、<羽生さんとはその思考方法が違うような気がします。結論は結局同じになるかもしれませんが、それにたどり着くプロセスがどうも違う。チェスをやってよくわかりました。>

 と語っているのが非常に気になっていた私は、棋聖に発言の真意を尋ねた。具体的な指し手の話になるのかと思ったら、棋聖が感嘆するのは、羽生善治名人のチェスに対する常人離れした「姿勢」だった。そして、それは森内俊之竜王にも共通しているという。

「あの二人を見ていると、日本人じゃないとさえ思うときがあります。美学や気合、流儀といった発想がなく、すべてが理詰め。それはまさにチェスの世界の考え方なんです。彼らに比べれば、自分は日本人だなあとつくづく思います」

 続く言葉が、今回の「種」である。

「森内さんに聞いてみたらどうですか。彼は羽生さんのチェスの棋譜を並べて、将棋に応用しているという話ですよ」

 本当なら、へぇ~どころではない。

―そうなんです。じつは羽生さんのビショップの動きを調べると、将棋で角をどう使ってくるか予想できるんです―

 な~んて話はもし森内竜王から聞けたらトリビアどころか大スクープだ。羽生名人から次々にタイトルを奪った理由がそこにあるとしたら―。

チェスって面白いの?

 だが大方の「将棋世界」の住人同様、私もチェスについてはルールくらいしか知らない。将棋倶楽部24のレーティングを一晩で250点以上下げた翌朝、チェス転向を決意して盤駒を衝動買いしたことはあったが、どうも熱が入らないのだ。

 やはり持ち駒が使えず、だんだん盤上が寂しくなることに抵抗がある。それにやたら引き分けが多いと聞くと、将棋より劣るゲームではないかとさえ思う。

「それは将棋をやってる人にありがちな誤解です。ぴょーん」

 と現れたのは私の勤務先の後輩、塩見亮である。最後のぴょーんは彼が熱狂するモーニング娘。のカゴちゃんの真似だ。ただのモーオタと思っていたこの男が、チェスの日本チャンピオンのタイトル保持者だと知ったときは本当に驚いた。

 小学生のときに将棋に熱中し、奨励会入りをめざしたが才能の限界を感じ断念。ついでに菊池桃子のファンもやめた。ところが大学に入ってチェスを覚えるやたちまち上達、学生チャンピオンになり、同時にアイドル熱も復活したという。

 そのモーオタが、チェス盤にけったいな局面をつくった。(d6に後手玉、d4に先手玉、d3に先手の歩)

「たとえば、これは先手の手番なら引き分け、後手の手番なら先手勝ちという結論が出ている局面なんです。駒が少なくなったら、こうした形にどう誘導するかを考えるのがエンディングというチェスの終盤戦です。将棋の終盤とは違うパズル的な面白さがあります」

 でもコンピュータが解明済みなんだろ。

「人間にはとても覚えきれませんよ。グランドマスター(将棋ならプロ級)でも間違えるほどです」

 引き分けが多いのもなあ。

「たしかにグランドマスター級の対戦は半分以上が引き分けになります。でも引き分けを狙うのも戦術の一つなんです。むしろ将棋が勝ちと負けしかない単純なゲームに思えてくるほどですよ」

 チェス界で実力の物差しとなる国際レーティングの世界一は現在、カスパロフ(ロシア)の2817。日本ベスト4は、①渡辺暁2365 ②羽生善治2339 ③ラモス・D2329 ④森内俊之2301

 である。チェスにも渡辺アキラという強い人がいるのだ。羽生名人は世界ランキングでは3940位となる。

「知識が通用しない力戦になると、羽生さん、森内さんの読みの力はさすがです」

 モーオタは2129で国内15位だが、この世界での存在感はかなりのものらしい。電話に出た森内竜王は、その名を聞いたとたん、一人のチェスファンとなって声を弾ませたのである。

「あ、塩見さんも一緒ですか?では、そちらまでうかがいます!」

おそるべし、「羽生のチェス」

 王将を奪取し二冠となった直後の竜王は、さあ何でも聞いてくれという表情だった。ビールが入り舌も滑らかだ。

「僕が8五飛戦法に抵抗なくついていくことができたのはチェスのおかげです。チェスの駒は飛び道具ばかりだから感覚が横歩取りに似てるんです」

 だが、チェスの将棋への応用についての具体的な話はこれだけだった。羽生名人のチェスの棋譜を解析して何か発見がなかったか、私とモーオタが手を変え品を変え聞き出そうとしても、

「いやー、それはないです」

 と竜王は微笑するのみ。そこに軍の機密を隠す様子はうかがえない。佐藤棋聖がくれたトリビアの種は、残念ながら花咲かなかった。

 しかし、竜王は羽生名人のチェスの話題を避けたのではない。われわれがスクープをあきらめかけたとき、むしろじつに饒舌に、羽生流のチェスがいかにおそるべきものかを語りはじめたのである。

「いちばん衝撃を受けたのは、郷田さんとの棋王戦を3勝1敗で防衛した(平成10年)その翌日に、百傑戦(国内のチェスの主要大会の一つ)に出場したことです。それだけでも驚くのに、なんと優勝してしまったんです。羽生さんにとって初めての大会出場だったのにですよ」

 羽生名人は、ジャック・ピノーさんにチェスの指導を受けていた。名人にとってピノーさん以外の人と指すことさえ、このときが初めてだった。だが名人は師匠のピノーさんと引き分け、日本一の渡辺暁さんに勝ってしまう。

「この大会のあと、渡辺さんは胃痛を起こして寝込んだそうです。ピノーさんもショックを受けていたようでした」

 竜王は、いつぞやの佐藤棋聖のような呆れ顔になっていた。

「羽生さんのチェスには、将棋以上に勝負への執着心を感じるんです。引き分けになりそうな勝負でも、状況や相手の力によっては踏み込んで勝ちにいく。

 しかし、ふつう初めて大会に出た人間が本気で優勝しようなんて思いますか?僕なら一瞬も考えませんよ」

 自分よりも羽生名人が優ると思う点として、竜王は意外なものを挙げた。

「体力が違うんです。チェスの大会は、長いものだと1日2局ずつ、4日間連続で戦うこともある。順位戦が4日続くようなものです(笑)。僕なんかフラフラになりますが、羽生さんは平気なんです」

 竜王の話を聞いてつくづく感じるのは、チェスという競技のタフさ、ドライさである。一局の勝負ではなく、トータルのポイントを争うため、棋譜の美しさなどへのこだわりが少ないという。ルールの範囲内ならば手段を選ばない面もあるようだ。たとえば「引き分け提案」も戦術の一つになる。勝負の途中で一方が引き分けを提案し、合意が成立すれば引き分けになるのだが、これを不利な局面でわざと使うのだ。当然拒否されるが、拒否したほうには「勝たなければ」というプレッシャーがかかることになる。

 国際大会ともなれば、こうした勝負を世界各国の初対面の相手と戦わねばならない。年中、ほぼ同じメンバーで戦い続ける将棋界とは大違いなのである。

「僕がチェスをやってる理由のひとつに相手を驚かせる楽しみがあるんですよ。国際大会では日本人はだいたいバカにされるんですが、やってみると僕が案外強いのに驚いて(笑)、こいつは何者だ、と」

 竜王が子供っぽく笑うのを見て、モーオタはいったものだ。

「いま将棋界で最強といわれる二人が、そろってチェスをやっていることに、何か意味がある気がするなあ……」

 さて、読者もそろそろじれてきたことだろう。大事なことを早く聞け、と。

変身のわけ

 では最近、対羽生戦で押しまくっている理由は、いったい何ですか?

 答えは、意外にあっさりと返ってきた。

「読み筋を減らしたんです」

 はあ?

「僕はいままで、相手と戦うのでなく将棋盤と戦っていた。変化をすべて読み尽くすまでは、次の手を指したくなかったんです。たとえ相手が読んでいるわけがない筋でも。だけど齢をとって、体力が続かなくなってきた。このままでは終わりたくなかったので……」

 またしても「体力」である。

「マラソンでいえば、1キロ3分を切るペースは続けられなくなったんです。レースに勝つためには、終盤に体力を温存すべきだと思った。やはり棋士になったからには最高記録を出したかったから」

 そしてやや自嘲気味にこう続けた。

「まあ、ある意味でいいかげんになったんです。でも、全部読んでいなくても、伸びのある手を指すほうが、相手が間違える確率は高くなるようです」

 チェスの影響で、内容より勝負重視になったということはありませんか。

「いえ、それはないですね。勝負重視とはいっても、賞金を争うチェスと違ってわれわれは新聞社に棋譜を買ってもらっているのですから、意味が違います」

 個人的に森内将棋の魅力は、一つでも穴があったら破綻する大胆な構想を、緻密な読みによって実現してしまうところにあると思っていた。丸山九段との名人戦第3局(2図)が典型的だと思う。

トリビア4

バラバラの陣形で飛車交換してもよし、という驚愕の構想。こんな将棋がどうして「鉄板流」だろう?

「鉄板流」などは、勝ちを確定するための手続きをいっているにすぎない。その大構想は、将棋盤を読み尽くせるほどの体力に支えられていたのだろう。

 だが、いま森内将棋は変わった。本人は否定したが、そこにチェスの、いや羽生善治のチェスの影響を見ることができるのではないだろうか。ある意味で将棋以上にハードな勝負を、自分が倒さねばならない相手は涼しい顔をして楽しんでいる。それをもっとも間近に見てきたことが、森内俊之の意識に変化をもたらした―。少々強引ではあるが、これを今回の報告とさせていただきたい。

「それにしても羽生さんはなぜ、あそこまでチェスに熱中するんだろう」

 モーオタはつぶやいた。それはいま、多くの将棋ファンが抱く疑問だろう。

 次回、羽生名人とモーオタが激突する。

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塩見亮さんは講談社で絵本や児童書の編集を担当、また今年のチェス全日本クラブ選手権では所属する麻布OBチームで全勝優勝、個人でも2位を獲得している。

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モーニング娘。が結成されたのが1997年。塩見さんは1975年生まれなので大学4年、あるいは講談社へ入社をしてからモーニング娘。の大ファンになったことになる。

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私は若い頃、「ある範疇の中での一番好きなもの」を自分の中で決めなければ落ち着かないタイプだった。

一番好きな色なら水色、一番好きな動物なら犬、一番好きな芸能人なら菊池桃子さん、一番好きな戦法なら石田流、のように、誰かにインタビューをされるわけでもないのに、決めていた。

当然、テレビで女性ユニットを見たときには、この中で相対的に一番好みの雰囲気は誰だろう、というのを頭の中で考えていた。

今世紀に入ってからは、いろいろな形があっていいじゃないか、と思うようになってきたので、そのようなことは全くなくなったが、そういう意味では初期のモーニング娘。が、そのような視点で見た最後のケースだったかもしれない。

たまたま昨日テレビを見ていると、かなり綺麗な女性が出演していた。よく見てみると、元モーニング娘。の飯田圭織さん。

20世紀の終わり頃、モーニング娘。の中では誰が一押しだろうと考えて、自分の中で決めたのが飯田圭織さんだった。