花村元司九段でさえ手こずったこと

将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

 私は休場明けをして出て行くやすぐ四段となり、昭和44年から順位戦に参加していた。が、病気を機に思うところがあり、郷里に在し、対局のおりだけ上京。といった生き方を選んでいた。地元紙”デイリー東北”に将棋欄をつくり、青森県南地方の八戸市を中心とした将棋界に漸く活気が生じ始めたころであった。たまには中央から棋士を…。当然ながらそうした気運もしだいに高まっていき、誰をよぼうか?となっていった。

 そこで花村が…。で、なくとも、まずは師匠を八戸に招き、1回は十和田湖でも案内し…と思っていたやさきでもあった。

 そんなある初夏の午前で、いまは大学1年となっている娘が2歳位になったか…で遅い朝食をすまし、のんびり一緒に遊んでいるときであった。花村から電話が…。さて?なんだろう。つい先頃、八戸へ来て帰ったばかりだが。と、受話器を取った。

 電話のむこうはいそぎがちな声。でなくとも、ふだんより早口気味で物ごとをはっきり云うは花村流。用件は、「豊橋で盤を処分したい人がいるんだが、あいにく私のところでは買うお客さんがいなくてね。きみのところでどうだい?もし、買う人がいたらあす浜松へ行くんだけど一緒に…」。そして、「私は10万マージンを頂きたいんだけどね」の、一言を付け加えることも忘れなかった。

 私は、あからさまに頭から「10万」とあっけらかんに云ってのけた花村流の毒気にビックリした。が、不思議と不快感はなかった。むしろ、自分が欲しいのは「これだけ」と云い切ってくれた方が交渉しやすく、なるほどと感心させられると同時に、私を頼むにたる相手と見込んで、「どうだい?」と話を持ちかけてくれた…そのことの方が嬉しかった。

「わかりました。ちょっと待ってください」と、返事して電話をいったんおくや、心あたりの人にあたってみた。この文章を書くにさいして、買った当人には”タネアカシ”を。で、あるが、当時は内緒で花村マージンを上乗せし、「豊橋で師匠の知り合いが盤を手放したいと云ってきているが、どうする?」と持ちかけていた。「いいさ、買おう」。ふたつ返事で応え、「して盤は、いつ?」。「実は、あす師匠が浜松へ行くついでに…」。「おう、そうか」。話は3分とたたぬうちにまとまって、これで宜しく頼むと旅費の名目で私に10万を。再び、花村に電話を入れ、翌日の午後、東京駅で会う約束となっていった。

「よう、御苦労さんだね」。東京駅で会うと花村は、いつもの屈託のない笑顔をみせ、私たち弟子が通称”集金カバン”とよんでいたカバンの中から、例の両切りピースを出して火をつけた。背広のポケットは膨らませないとした作法もあって、洋服の場合は集金カバンを持つのが常であったし、和服の場合は普通のカバンが常の姿であった。そのポーズよりして、今回の浜松行きは軽い稽古か?の用むきついでに、豊橋の盤を…。それも軽く済みそうな用として映っていた。

 花村と二人きりで列車に乗るは2回。これが初めてであった。車内は比較的すいていた。さっそく盤を買う話の打ち合わせや、連盟内部の下世話ばなし等。そして、一段落すると花村は居眠りを…。私は通路をはさんで隣の席へ移り、しばらく窓外の飛び行く景色を眺めていたが、やはりそのうち、旅の疲れと午後の睡魔にウトウトとしていた。

 私は、花村が死ぬまで愛読していた競輪新聞の世界は、まったく…。それに碁、麻雀の世界にも疎く。反対に青臭い政治論や経済論。さらに絵、小説、音楽、陶磁器などの話になると、まるで”阿呆らしい?”と云った観で趣味、主張の違いが…。すこしの間、まどろんで目を覚ますと、花村はまだ眠っているみたいであった。初夏の富士が、暮れがたい午後に優美で悠久な姿をみせていた。それをぼんやり眺めている間に、花村も目を覚まし、「きみ、コーヒー呑まんかい」。いつもながら目覚めのいい朗らかな顔であった。そうこうしているうちに豊橋へ…。着いたときは、さすがに夕暮れ近くだが、あっという時間に感じられた。駅の外に出ると私達は、すぐタクシーを拾い目的の盤を譲ってくれるという人の家に直行した。その家は下町の住宅街といった横町にあった。

 かの盤は、六寸豊かの手入れが十分に行き届いた年代を感じさせる良い艶でベッコウ色の光沢をなし、しかも、盤蓋には十三世名人関根金次郎筆で「千変万化」の揮毫が認められてあった。電話を受けたときから値段が値段だもの、それ相当な…と思っていたが、目の前にした瞬間、「これなら自分が買うのだった」と思った。

 ところで花村は、所有者の住所氏名も、どんな事情で盤を処分したいのかはいっさい云わなかったし、私もあえて訊く必要が…と思っていた。ただ、ここは豊橋市内。そして、この家の主が”盤を処分”というのみが解っていることであった。が、このさいは盤を譲られればいいだけで、あとは関係なしか…。それはそれで「後腐れなし」の花村流で、すっきりとした取引の世界であった。

「どうだい、きみ」。花村は、私の方をみて訊いた。見た瞬間、自分が欲しいと思った盤だけに身をのりだして、「いいですね」とふたつ返事を返すと、また所有者の方に視線を変え、「では、例の金額で譲られて…」と切りだすと、相手は、「うーん」と唸ったきり、しばらく沈黙のときをやり過ごしていた。盤の所有者は、歳の頃なら花村と々くらいか。

 当時の花村は56、7歳であったが、頭こそトレードマークの僧形をしていたが、全体に艷やかで華やかな身なりと雰囲気があったのに比べ、その人は自宅にいるせいか身なりもすくみ、しかも、改まって正座した肩が縮こまっている姿がなんとなく歳より老けてみさせていた。

 花村は再度、「では…」と促して、相手をギョロリと睨むような眼でみた。相手は視線とは関係ない俯いた姿勢のまま、「私もこの頃は将棋もようやらんし…、しかし、なあ」とぼそっと呟いたっきり、また沈うつな空気が流れていた。しようがなく、私達は冷たくなった茶を吸った。考えてみれば自分の指値であったにしろ、いざ、買い手が現われ、現実のものとなるや、急にい愛惜しい感情となるも人のつねか。まして、長年だいじにし、自慢もしてきた盤であればなおさらであった。

 花村と盤の所有者は古くからの知り合いらしく、私はじっとなりゆきを眺めていた。いつしか日はとっぷりと暮れてしまい、「わざわざ池田君もこうして遠いところを…」と、再三の催促におよぶ花村の表情は、いつもと違って業を煮やした観にあったが、それでも努めて平静を装い促しにあたる図は真剣さを超え、ある種の凄味さえあった。相手は相変わらず、「しかし…、なあ…」を繰り返すのみで埒があかなかった。そして、やがて手洗いなのかどうか?ちょっと席を立った。私も、とうに話がついていると思っていたのに意外なことの運びに苛々していたところがあった。

 否、もしかして席を外したは気をきかせもしたのか?その隙に、「先生…この辺で現金をみせて頼んだ方が?」「おっ、そうだな」。続いて、「予定額よりアシがでてもかまいませんから」の、一言をつけ加えることも忘れなかった。とにかく私としても、盤を見ずに電話一本で「買う」と云い、「宜しく頼んだぞ」と信用されてきている手前、手ぶらで帰るわけにもいかなかった。現金を花村に渡し、それを目の前にしての交渉が開始され、ほどなく「しゃないな…」の声がぽつり。結果は相手の言い値に、5万円ばかり上乗せした金額で折り合いがついていた。盤さえ手に入れれば長居は…。売りたいという値から値切った話でもなく、先方が「これなら」と云いだした値段なのに改めて交渉ごとの微妙さに、タクシーを拾うと疲れた気分が急に襲ってきた。花村は?とみると「しょんない新幹線に間に合わなくなってしまった」と言いながら、いましがたのことを忘れたように煙草を一服。そして、最終の新幹線に乗り遅れ、その原因は、云うまでもなく案外に手間取った盤の所有者。などなどを少しも語らず、いつもと変わらぬ世間話を…で、運転手に町内名を告げ、今夜の宿へと。この屈託のなさと変わり身のはやさ。盤を巡って煮え切らぬ相手との血相を変えての攻防。そういえば、相手の家へ入ってより終始、「盤を約束どおり譲ってくれ」の一点ばりで、余分な会話をいっさいないのが妙に脂っぽく、異様な迫力としていまもって脳裏に…。花村流の商法をかいまみた思いがした。

 宿に着いて、「先生、きょうはどうも…」と、例のマージンが封筒に入ったものを差し出すと、花村は、「私の責任で5万が上乗せになったのだから、それを差し引いて5万でいいよ」と。さらりとした意外な応えが…。「先生、それは約束ですから」「否、きみに約束した額より出た分は、私の責任で当然花村が…」。さらに、「否、どうぞお受け取りください」。又、「私の責任で…」と封筒が往ったり来たり。思うに旅の宿で、師匠と弟子がこんなことをやりあっているのも変な光景であった。が、花村は、私を弟子以前の商売人とみて、自分の”面子が立たぬ”といったところか?約束どおりのマージンは「受け取れぬ」とした態度にあるみたいだった。だからと云って、私もこのまましまいこむわけにはいかなかった。盤の件は、買い主に理由を話せば解ることであったし、じっさいに見れば得心するであろう逸品で、アシが出た分の算段は簡単に話が…で、そう5万円に固執した話でも…の気があった。

 しかし、「それだとお客さんに迷惑が懸かり過ぎる」と花村が云い、「どうだいアシが出た分は二人の折半ということにしようじゃないか?」と、持ちかけると同時に、”いいかげんにしろや”と云いた気に眼を見据えてギョロリと私の顔を…。その眼に顔を立て?というより、もとは花村のマージンを巡っての話だけに、私は突っ張っている理由が立たなかった。

「ええ、まあ」と云うや、すかさず「それプラス、きょうのここの経費は花村が…」と間髪入れず話を落着させ、「おい、ひと風呂浴びてこよう」といつもの屈託をみせない花村流となっていた。汗を流す程度であったが、花村と風呂を浴びるは遠く日暮里の内弟子以来であった。風呂から出て芝居の桟敷みたいなガランとした畳敷きのだった広い食堂とも酒場ともつかぬところで、牛鍋をつつき、ビールを何本か呑んだ。私は酒が好きで、花村は受けつけぬ体質であることは前にも述べたが、お茶だけで座を湧かせ、頭にタオルを乗せ、古くからの知り合いらしい同年代か、それより上か?の女性群に囲まれ結構ゴキゲンそうであった。もっとも浜松出身の花村にとっては、豊橋も自分の家の庭みたいなものであった。が、宿は旅館とはいっても昔の旅籠といった感じで、障子がところどころ破れていたり、建て付けも悪かったであったが、いっこう頓着なしの庶民性、線太さが花村流であった。

 きょう一日、東京駅で会ってより盤を買いに行き、先程まではマージンを巡っての話。そして、今は木賃宿にも似た宿で師匠と泊まっている…。私は名状しがたい感情と同時に、あえて”共栄”なる言葉を好んで揮毫した花村の信条を真にみたような?で、夜が白むのを覚えてようやくウトウトと眠りついていた。

(以下略)

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相手から買値を提案されてそれで売るのなら諦めもすぐについたのだろうが、このケースは、売主自らが言い出した売値での取引。

かえって最終盤で、「この金額で本当に良かったのだろうか?もっと高い値段で言っておいても売れていたかもしれない。ああ、あの時にもっと高い値段で言っておけば…」と売主に迷いが生じてしまったのだろう。

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昔の旅籠のような旅館での牛鍋という取り合わせが意外で、一度食べてみたいような気持ちになってくる。

年増の芸者さん達も風情を盛り上げている。