「彼が順位戦で負けた後、24時間休みなしに飲みつづけている最中です」

将棋世界1999年4月号、河口俊彦六段(当時)の「新・対局日誌」より。

2月3日

 対局開始前の30分くらい前の、午前9時半ころ、私は関西将棋会館5階「御黒書院」の入口の椅子にこしかけ、対局者が来るのを待っていた。

 長年将棋を見つづけているが、棋士の対局前の表情を見たい、と思ったことはなかった。棋士は誰でも、対局室の雰囲気になじんでいない顔を観察されるのは、あまりいい気持ちではなかろう、と想像していたからである。

 ところが、前号で真部八段が書いていたような事があると、朝の対局室も見逃せなくなった。

 この日の対局は、A級順位戦の、谷川九段対加藤九段戦と、島八段対井上八段戦の二局だけ。数はすくないが、どちらも勝負将棋である。結果次第で、今期のA級順位戦が事実上終わってしまう。つまり、谷川と井上が勝ち、東京で森内が負けると、挑戦者と降級者が決まる。

 まずあらわれたのは井上八段だった。30分も前だ。「ずいぶん早いね」と言うと「大雪の予報が出ていたので、早めに来ました。私の所は雪になると動けんようになるのです」。流石の心がけだ。

 それからしばらく間があって、加藤九段が来た。カメラマン氏や私達を、石のように黙殺して、対局室に入って行った。

 次は島八段。自然に一言二言交わして行った。

 10時5分前、谷川九段が階段を上がってあらわれた。多分3階の事務室に寄り、時間を調整したのだろう。加藤さんのような人と対戦するときは、これが無難なやり方だ。後から入って、空いている席に座れば、気を遣わないですむ。

(中略)

 夜の8時半ころだったか。3階の棋士室に加藤さんが降りて来た。何か言いたげである。観戦記者の池崎君が気を利かせ「何でしょうか」と声をかけた。加藤さんが部屋の外でしゃべっている。聞いた池崎君が控え室を見まわし、年少の奨励会員を見つけ「お使いにいってよ」と頼んだ。

 少年は加藤さんの所に行き、用件を聞いた。ケーキを3つ、という注文らしい。

 千円札を持って、何処へ行こうかな、という顔なので、プラザホテルの1階に行きなさい、と教えた。何といっても元名人である。食べるにしても、おかしなものではいけない。

 少年が出て行った後、池崎君が「加藤さんはあの子が同門とは知らないだろうな」と呟いた。

「じゃ南口先生の最晩年の弟子か」

「そうじゃないですよ。剱持門下なんです」

「そうか、加藤さんは師匠を変えたんだ。すると、あの子が兄弟子で、つまり弟弟子が兄弟子に使いを頼んだわけだ」

 関西なので、私は南口門下と早合点してしまった。まったく最近の将棋界は何が何だかわからなくなった。

 後で聞いたら、少年は橋本三段で、まだ15歳。将来有望ということだった。また、加藤さんは、特に弟子の筆頭格ということで入門したそうである。

 それにしても加藤さんは凄い。昼は天ぷら定食、夜も天ぷら定食、そして夜食にケーキ3個とみかん。どう食べたかと、すこし間をおいて対局室に見に行くと、一つだけ食べてあった。さすがに若いころの迫力は薄れた。昔だったら、ショートケーキの3つくらい、ぺろりとたいらげていただろう。

(中略)

 午前零時を回ったころ、御黒書院の下段の間に入った。

 井上優勢だったのが、どうしたわけか5図から総退却の形になり、大勢は決していた。島八段は余裕ありげに時間を使い、最後の寄せを読んでいる。うなずいたりして、読み筋を確認しているのがわかる。待っている井上八段には長い時間だったろう。

 となり上段の間から襖越しに秒読みの声が聞こえる。大きな駒音がするとやみ、ちいさな駒音が聞こえてしばらくすると、秒読みが始まる。一局の将棋の心臓の鼓動だと思った。秒読みの終わりが、心臓の止まるときなのだ。

 井上八段の悲痛な表情を見ているとそんな連想が浮かぶのである。

 島八段は、詰ますことなど考えず、相手の飛車を抜き、必至逃れの必至をかけるという賢い手段で勝った。手を下ろすとき、自玉のあたりを入念に見まわしたのはいうまでもない。

 加藤九段の投了の声が聞こえ、それから数分遅れて井上八段が頭を下げた。

 静かに感想がつづられ、それを見ているのだが、頭がぼやけ、手がわからない。もう午前2時になっていた。今日は朝からよく将棋を見た、と納得してホテルに戻ることにした。途中、開いていたラーメン屋(かつて、ここはチャーシューだけがうまい、と村山九段が言っていた)に寄ると、奥に若い一団がいて、それが将棋指しだった。小倉六段がいるので、アレッという顔で見ると、「彼が順位戦で負けた後、24時間休みなしに飲みつづけている最中です」と相棒の本間五段が照れくさそうに言った。

 私は呆れ返って言葉がなかった。

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「となり上段の間から襖越しに秒読みの声が聞こえる。大きな駒音がするとやみ、ちいさな駒音が聞こえてしばらくすると、秒読みが始まる。一局の将棋の心臓の鼓動だと思った。秒読みの終わりが、心臓の止まるときなのだ」が、とても印象的な表現。

襖の向こうの、1分将棋の加藤一二三九段(大きな駒音)とまだ秒読みにはなっていない谷川浩司九段(ちいさな駒音)の対局。

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橋本崇載三段(当時)がケーキを買いに行くシーンは、池崎和記さんも近代将棋に書いている。

村山聖八段(当時)と橋本崇載三段(当時)

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小倉久史六段(当時)はそれまでC級1組順位戦で6勝2敗と昇級圏内だったが、7勝1敗だった神崎健二六段(当時)との直接対局に敗れ、昇級の可能性が無くなった。

24時間以上飲み続けたくなる気持ちもわかる。

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飲む話では数多く登場している本間博五段(当時)が一緒にいるのが嬉しい。

本間五段は皆に好かれるキャラクターで、また誘われたら断らない主義なので、対局で負けた関東の棋士に呼びだされて酒を付き合うことが非常に多かった。

本間博五段(当時)の怒涛の二日間