真部一男八段(当時)の深夜の憂鬱

将棋世界1999年9月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 遂に我が将棋連盟にも禁煙化の波が押し寄せてきた。会報で通知されていたようだが迂闊にも見落としていた。

 まだ全面禁煙といった過激な事態には至っておらず、記者や棋士の溜まり場である桂の間において、昼、夕食休憩の時間のみ禁煙だとのことである。

 何事につけ欧米化することが進歩だと考えている日本であるから、いずれはその日が来るであろうとは予想していたが、やはり遂に来たかと云うのが実感である。一点突破、全面展開、遠からず全面禁煙令が発令され、さわやか空気の将棋会館に生まれ変わることであろう。

 超がつくヘビースモーカーで知られた泉下のヒゲの大先生、升田幸三は、この日の訪れ何と聞くらむ、である。

 そりゃあ確かに知的レベルの低い階層の人間の自殺行為とまで酷評される煙害に、無垢な人々までも巻き込むのは良くないけれど、一寸の虫にも五分の魂、盗人にも三分の理、と云うじゃありませんか、あれは気持ちの鎮静効果もあるのです。大体近頃は健康ブームとやらのおかげで、無害清潔に拘り過ぎますよ。

 今、私は〆切をとうに過ぎギリギリのところでこの原稿を書いている。

 私の脳裏にはとってもこわい編集者、野村氏の冷徹な表情がちらついている。

 只今、7月22日午後11時10分、12時には彼から電話が掛かってくるのに、お分かりのようにまだここまでしか書けていない。落ち着かない、不安である。

 こう云う時は特効薬に頼るのが一番だ。ちょっと休憩して一服しよう。

 何が何でも徹夜してでも書き上げろと命令されているのだ。さもなくば大崎編集長は休載にすると宣言しているらしい。愚図ではあるが約束を果たせぬとあっては加藤治郎師に顔向けできない。

 昨日、4階対局室のエレベータ脇のシルバーシートで観戦記の高橋呉郎さんと雑談しているところに弟子の小林宏が来て横に座った。そのうち高橋さんは対局室に戻り、私もこの文章を書かなければならないので席を立とうとすると、小林がもうお帰りですか、と意味深に聞いてきた。君は今日順位戦だろう、と聞くともう終わりましたとの返事である。

 相手に錯覚があり、中盤早々の終局となったそうだ。久々の弟子の誘いを断れるものか、しかも2階の道場にはバックギャモンの下平憲治氏も来ていて合流したいとのことである。

 下平氏はつい先日モンテカルロで開催されたバックギャモン世界選手権に参加して帰国したばかり、そのみやげ話も聞けるとあっては、この日のシナリオは出来上がっていたも同然だ。

 しかし、その時点ではまだ理性もしっかりと働いており、彼らにも事情を説明して、今日は軽くと云うことで衆議一決した。行き先はいつもの代々木の酒場である。

 初めのうちはビールを呑みながらおとなしいものである。下平氏もこのところ禁酒していると云う。何でもモンテカルロで試合に備えて禁酒したところ、見違えるように体調が良くなった、などと殊勝なことを云っている。

 率直発言派の小林も、〆切のことが片時も頭から離れぬ師の憂い顔を案じてか控え目に呑んでいる。

そこで私は考えた。折角の酒席が私の都合で遠慮がちになってしまっては、師としても年長者としても申し訳が立たないではないか、今日書くことを断念し明日、徹夜すれば済むことだ。そう決心すれば気は軽い(その時だけは)二人にそのことを宣言し、今日は呑むぞと心に決めた。いつもと同じ光景である。

 そのうち、電話があり下平氏の奥方も参加して賑やかなことになってきた。

 奥方はうちの下平は天才ですなどとノロけている。下平氏も禁酒の話はとうに忘れたらしく、がんがんやっている。

 私のウイスキイが少なくなると抜く手も見せずにドボドボ注いでくれる。

 あとのことはもう書くまい、と云うより殆ど覚えていない。小林が名人位に対する熱い想いを語っていたようだが夢現である。あとで店の人に聞いてみたら、シーバスを2本近く空けてしまったらしい。

 大崎氏も野村氏も決して鬼ではないのである。これ皆、身から出た錆、自業自得なのである。今、野村氏から連絡があり、明け方原稿を取りに来てくれるとのこと、まことに相済みません。

(以下略)

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このあと、「ここまで駄文にお付き合いいただいた読者に口直しとして、中原、米長の新進時代の溌剌とした将棋を御覧いただく」と文章が続く。

真部一男八段(当時)の心情が非常によくわかる。

弟子の小林宏六段(当時)の誘いを断るようなら真部九段ではないし、飲みに行って今日書くことを断念し痛飲モードに切り替わらないようなら真部九段ではない。

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真部八段の住まいは代々木。

原稿をメールで送信することがまだ一般的ではなかった時代、将棋世界編集部のある千駄ヶ谷から代々木は至近距離。

原稿を取りに行くには絶好の場所だ。