「藤井猛九段に驚きの気配があらわれている」

将棋世界2002年12月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 A級順位戦の様子がおかしい。第4回戦の佐藤対三浦戦が、お伝えした通りの一方的な将棋。その後、青野九段対森下八段戦、羽生竜王対島八段戦も同じで、みな王手が1回もかからないという将棋だった。

 そしてこの日の郷田九段対藤井九段戦にもそんな傾向があらわれていた。午後、対局室に行ってみると、郷田九段は鬱のかたまりのような顔だった。どうにもならぬ作戦負けになっていたのである。

 であるから、夜戦になってからの控え室もさっぱり盛り上がらない。豊川六段が一人黙々と棋譜を並べ、真部、先崎、日浦といった面々が、見るともなしに眼を遣っている。まるで26日のときと同じような顔ぶれである。

 モニターテレビが映している場面は、相変わらず藤井有利だ。調べる気にもならず、雑談も、最近の将棋は執念が足りない、といった方向の話になる。例によって先崎八段が小演説をぶった後「私の今日の将棋を見て下さい」と自戦解説を始めた。

(中略)

 控え室は、この後、真部八段の会心譜を見せてもらったりしていたが、順位戦の方はさっぱりである。夜の9時ごろになると、真部君が「こりゃ見ててもしょうがないよ。先ちゃん、久しぶりに代々木にでも行こうよ」と言いだした。

「酒断ちしてますんでねえ」先崎君はウンと言わない。「なぜ?」私が聞くと「勝負将棋がもうすぐあるんです」それじゃしょうがない、と納得したが、真部金は「飲むメンバー次第で、酒は体にいいんだよ」と理屈をこねる。

 そう言われて先崎君の心が動いた。三人で江戸時代の碁の名人達の話でもすれば、いいストレス発散になるだろう。しかし、私は取材日である。「もうちょっとだけ様子を見ようよ」とモニターテレビに目を向けた。

 局面は10図のようになっている。

 今後手が6六の歩を6七に成り捨て、先手が5六の銀でそのと金を取ったところ。先手優勢に変わりはないが、ひと頃に比べれば大分差が詰まっている。

 ここで先崎節が出た。

「こういうとこで、△6九飛だけは指してはいけません、▲5六銀と出られて後手は絶対に勝てなくなります。だから指すとすれば△5五金かな」。

 それを継ぎ盤に指し「▲6六銀でやっぱりわるいか」と言っていると、郷田九段は奇妙な手を指した。その一手を境に愚局が名局に変身するのである。

10図以下の指し手
△5九飛▲6二角成△5五金▲4四歩△5四銀▲7二飛△9九飛成▲5二馬△6四角▲6五歩△4六金▲6四歩△1七香(11図)

 利くでもなし、利かぬでもなし、で△5九飛と打った。何を狙っているのかわからぬが、とにかく▲5六銀と上がりにくくしている。こういう手はたいがい好手なのである。

 藤井九段はややもてあまし気味になった。▲5六銀と上がるのは、△9九飛成なら十分だが、△5五金▲同銀△同飛成が嫌だった、と局後に言ったが、遊んでいる銀がさばけるのだから不満がなかろう。つまり優勢を意識しすぎたのだ。

 そうして▲6二角成と攻め合いにしたのだが、▲4四歩と取り込めるから、先手がわるいはずがない。

 ただ、▲5二馬のとき△6四角がしぶとい手で、一見▲4三歩成△同銀▲同馬で簡単によさそうだが、△4二歩と受けられて容易でない。

 で、▲6五歩と打ったが、これは控え室で真部八段が指した手。指しながら「オレに見える手だから、きっと悪手だね」と笑ったが、これは決めに出た手とも言える。

 ここの数手で将棋は決まる。この場面さえ見ておけば酒を飲みに行ける、というわけで対局室に行った。

 ちょうど△4六金と出たところだが、郷田九段の表情は、何やら自信ありげである。すくなくとも悲観している様子はない。

 藤井九段の方は、あごを引き、奥歯をかみしめて考える。角を取って、自玉に寄りがなければ勝ちだ。2分で▲6四歩と取った。

 その瞬間、△1七香が飛んだ。私は内心アッ!と叫んだ。これを読んでいて、だから落ち着いていたんだ、とわかった。

 △4六金と出た手の調子からすれば、▲6四歩に△4七金と思ってしまう。すると▲同金で、△2九金▲1七玉△3九竜と攻めても、▲3八金で受かる。

 また、△4七金▲同金としてから△1七香はある筋だが、▲同玉△1九竜▲1八金とはじいてよい。

 くり返すが、△4七金▲同金を決めずに、△1七香が、ここしかない、という絶妙のタイミングなのだった。

 藤井九段に驚きの気配があらわれている。もう酒を飲みに行くどころではない。

11図以下の指し手
▲同香△4七金▲3九香△4八金打▲同金△同金▲2九金△4九金打(12図)

 控え室も騒然としてきた。といっても、2、3人の棋士と、毎日の中砂記者、週将の水沢記者がいるだけだが、将棋がおもしろくなれば熱気も出てくる。

 軽薄な私が「大妙手だ」なんて言っていると、何事に対しても反抗精神旺盛な先崎八段は「待てよ」としばし考え「▲1八香なら受かっている。やっぱり郷田君が負けだ」と断じた。

「何だと?」と私は絶句。もう恐れ入るしかない。

 動揺した藤井九段は▲1八香が見えなかった。▲1七同香と取っては、本当に逆転ムードとなった。

 △4七金に▲3九香はやむなく、以下千日手含みのややこしい手順があったが、そんなケチな考えは郷田九段になく、△4九金打と堂々と寄せにかかった。この△4九金打も感嘆の一手で、非常に怖い。つまり駒を何枚持っても詰まない形だから、どんな無茶をされるかわからない。

 郷田九段は、自玉に一手すきが続かない、と読み切ったのである。

12図以下の指し手
▲3四馬△4二歩▲2三馬△同玉▲7一飛成△2二玉▲4三歩成△同銀▲6六角△4四角▲同角△同銀▲6五角△5四歩(13図)

 一手すきをかけるには▲3四馬しかないが、△4二歩で、うまい一手すきが続かない。▲2三馬から▲7一飛成はこれくらいのものだが、このとき藤井九段は、負けるべき運命の将棋なのだ、と悟っただろう。局後の雑談めいた感想のなかで「感触がわるかった」という表現でこのあたりを語ったが、鋭敏な感性がここにあらわれている。本来、飛車が一段目に成って利かすときは、▲8二飛から▲8一飛成と桂を取って利かすべきところ。それが▲7一飛成の空成りでは、打ったときは好手だった▲7二飛が悪手に変じた、というわけである。

 それにしても、△1七香以後の郷田九段は素晴らしかった。▲6六角に対し、△4四角も正確な応手で、△5五歩などは▲8五桂で、一粘りされる。

 13図以下、12手ほど戦いは続いたが、もう再逆転の目は出なかった。

 終了は午前1時。終わってすぐ、私が▲1八香の受けを訊くと、郷田九段もうなずいて「それなら負けと思っていました」と淡々と言った。藤井九段は「そんな手あったの」と頭をかかえた。

 それから1時間あまり、盤面は投了図のまま、目かくし将棋みたいに、言葉のやりとりで感想戦が続けられた。こんなことも珍しい。

(以下略)

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11図、金をこれから入手できるとはいえ、後手の持ち駒は歩だけ。先手の銀冠は形だけ見れば金銀3枚の原型をとどめている。

駒割りは、先手の香と後手の角の交換で、後手のほぼ角損。

そのような状態で▲1七同香と取ると先手が負けになるとは、本当に将棋は恐ろしい。

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更には、「まあまあまあ」となだめるような雰囲気の▲1八香で助かっているのには驚いてしまう。

▲1七同香が銀冠の弱点を露呈してしまうのに対し、▲1八香は銀冠の強みを発揮できる手ということになるのだろう。

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本局は、映画に例えると、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のような展開か。(前半はゆったりとしたサスペンス映画風なのに、途中から突如たくさんの吸血鬼が現れて、ホラー映画になる)