いにしえの将棋界三奇人

将棋世界1981年1月号、能智映さんの「棋士の楽しみ―(酒)」より。

 ありきたりの表現だが、将棋指したちは”勝っては呑み、また負けては呑む”のである。

 いつか、ある棋士に自省も含めて「あんまり呑むと、肝臓がやられちゃうんだってね。お互いに、ほどほどにしなくちゃあ」と生意気な忠告をしたら、その男、グイッとグラスをあおって、興ざめ顔でこういったものだ。

「ばか、肝臓がぶっこわれるのが怖くて酒が呑めるか。もし肝臓じゃないところがやられて死にそうになり、その時”もっと呑んどけば―”と悔やんだりしたら損じゃないか」

 その心意気、まさに「米汁呑了居士」の名を与えてよいかも知れない。

「しかし、もともと将棋界には酒豪はいないよ」というのは加藤治郎名誉九段。

「塚田(故正夫名誉十段)だって、升田(幸三九段)だって、よく呑んだけど、酒豪というほどの酒じゃないよ。ただ、昔の将棋指しは無茶をして面白かったとはいえるけどね」

 ひと昔前、将棋界には”三奇人”というのがいたという。今ナンバー1の芹沢博文八段でさえ「あの三人はすごかった。呑む量はたいしたことがないにしても、奇抜さという点ではケタはずれだった」と脱帽するのである。

 20年ほど前早逝した金高清吉七段。

「これはすごかった。バスで隣に乗り合わせても、まったく気付かぬほど酔っていたものね」と加藤名誉九段は苦笑する。

 ともかく、付き合いのいい人だったらしい。―先年亡くなった故・梶一郎八段が酔って道路に寝ていると、「先輩、先輩!」と一応は起こしながら、「先輩が寝ているのに、おれが起きてちゃ悪いからな」と、その横で大イビキをかいていたというのだ。

 一昨年に亡くなった清野静男八段は「面倒見のいい人だった」と芹沢八段は回想する。

―金が入ると、若い者(今の中堅)を連れて、よく上野あたりのキャバレーを呑み歩いていたという。呑みすぎてスッカンピンになり、新潟の自宅へ帰れなくなった、というちょっぴりあわれな話が今も残っている。

”三奇人”の中でただ一人健在の間宮純一(久夢斉=退会)六段は、自由人であった。

―彼が持つ「玉」は三段目から四段目と常に上へ上へと目指した。「玉が安全なのは敵陣である」というのが持論だ。

 いわゆる理論家なのか、当時流行のエジソン・バンドを額にしめて対局にのぞんでいた。エジソン・バンドとは、額の部分にブリキカンがあり、その中へ水を入れて冷やす、というごく原始的な健康器械である。だが、この間宮氏、これをただ平凡には使わなかった。冷水のかわりに酒を入れ、将棋が中盤になったころ、「失礼!」といって、人肌にあったまった酒をグイッと呑み干し、「さあさあ」とまた盤に向かったというから相当なサムライだ。

「これらはまだおとなしい関東の話。大阪じゃあ、もっとすごい話があるはずだよ」と芹沢八段。

 故・松浦卓造八段が巨体にものをいわせて、五寸もの碁盤を片手で持ち上げて「さあ、くるなら、こい!」とやった話は有名だし、本間爽悦八段が怒りに燃えて、ステッキを振り上げたという武勇伝も聞かぬではない。

「升田九段以下、松浦、本間両八段、野村慶虎七段……と話題に事欠かない先輩たちがそろっていたからね」と東京の棋士たちは大阪の往時をしのぶ。

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「先輩が起きているのに、おれが寝てちゃ悪いからな」というならよくあることだが、「先輩が寝ているのに、おれが起きてちゃ悪いからな」はなかなか斬新な考え方だ。

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昔のキャバレーは、現代に即して言えば、生バンドが入って演奏するステージ、プロのダンサーによるショー、客とホステスが踊れるダンスホールがあるキャバクラ、といった形態。

当時の姿をそのまま残しているのが、1931年創業の銀座の老舗キャバレー「白いばら」。

私も何度か行ったことがあるが、昭和30年代の小林旭主演の日活無国籍映画のエキストラになったような気分になれるのも嬉しい。

銀座「白いばら」公式ホームページ

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頭寒足熱の原則に則ったエジソン・バンド。

頭が重くて気になって仕方がなかったのではないかと思うのだが、それにも増すメリットがあったということだろう。

現代の冷えピタでは、間宮純一六段のニーズを満たすことはできない。

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清野静男八段→稀代のプレイボーイ棋士

間宮純一六段→入玉の鬼、間宮久夢斎六段

松浦卓造八段→豪傑列伝(1)