李下に冠を整さず

将棋世界2000年11月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

変身した男

 200X年、奥倉八段はC級1組に所属していた。これまで特に目立った棋歴もなく、強いて云えば無遅刻、無欠勤が自慢の並の八段だった。

 序盤に工夫のある将棋だが、その名が示すように奥が暗いタイプである。

 奥が暗いとは業界用語で、くだいて云えば終盤が冴えない、という意味合いだ。

 年が明ければ50の大台に乗る、棋士としての転機を嫌でも考えさせられる年齢になっていた。

 楽しみといえるものも特になく、せいぜい毎晩二合の晩酌とテレビの懐メロ番組で美空ひばりを聞いて涙を流すといった平凡な男である。

 そんな奥倉に変化が起きた。

 ある時期を境に、急に勝ちだすようになる。

 順位戦の緒戦で名人候補とされる羽竹五段を血祭りにあげたのを皮切りに、各棋戦でも居並ぶ新鋭中堅を当たるを幸い薙ぎ倒し、岩見重太郎ではないがまさにチギッては投げチギッては投げといった有様だ。その内容は、これまで不得手としていた終盤が見違えるように正確になっていた。

 プロであれば誰でも、終盤のある局面を見てここは詰みがある、と直観するものだ。

 ところが年齢を重ねるにしたがい悲しいかな、詰みがあるとは感じても、正確に読み切る能力に翳りがあらわれてくるのである。

 しかし、奥倉はその宿命的ともいえる弱点を見事に克服したのだった。

 そして遂に竜王戦の挑戦者決定戦にまで進出したのである。

 立ちはだかるは、無類の寄せを誇り終盤のワープ航法と称され、その速すぎる寄せを恐れられる早杉九段である。

 さすがに早杉の終盤力は比類なきものがあり、奥倉が一気の寄り身をみせても容易に土俵を割りはしない。

 一進一退の攻防が続いたが、一瞬鵜の毛でついたほどの隙が早杉玉に見えた。

 こうなれば奥倉は逃しはしない。

 勝ちが見えた時の中原永世十段のように、気息を整えるがのごとく席を立つ。

 数分の刻を経て着座するや、あっという間に早杉玉を即詰みに討ち取ってしまった。

 途中、角の不成という実戦では滅多に見られる筋をちりばめた、見事な超光速の詰め手順であった。

 ここまでくると周囲も騒ぎ出す。

 あまりに急激な奥倉の変身ぶりが信じられないのだ。

 ここに古地江七段という中堅棋士が目をつけた。無人の野を行く勝ちぶりの奥倉だが、なぜかテレビ棋戦では勝てない。

 予選もしかり、一局も勝っていないのだ。すべてに懐疑の目を持つ古地江は訝った。ある日、勝ちが見えた奥倉が気息を整えに席を外す。その後ろをこっそりと尾けたのである。奥倉は階上にある無人の部屋へと入っていった。

 古地江は息をひそめて、そっと襖を数センチ開け中の様子を盗み見る。

 そこで古地江が見たものは、超小型のパソコンを操る奥倉の姿であった。

 もうお分かりだろう。奥倉は詰みありと直観するや、さも手洗いに立つがごとく席を離れ、別室で詰み筋をコンピュータに検索させていたのである。

 なるほどこれでは人目の避けられぬテレビ対局では勝てないはずだ。

 悪知恵のよく働く古地江は、このことを誰にも明かさなかった。

 やがて、己もまたその道を選んだのである。そして、その結果は………。

近未来の可能性

 勿論、この話はSFである。Sはサイエンスではなく将棋、つまり将棋フィクションだ。

 フィクションではあるが、あり得る話なのだ。現在既に詰将棋を解くスピードにおいては、プロ棋士がパソコンに及ばない事実はよく知られている。

 将来、誰もがコンピュータを利用して対局する日が来たと仮定しよう。

 その場合、誰が最も恩恵を受けるだろう。これは先の話の中でも触れたが、中年以上の棋士であろう。

 年長棋士の一番の弱点が、終盤において速く正確に読めないという部分だからだ。

 もしも現実にコンピュータを使用することが許可されることになるとしよう。

 これは若手棋士から見れば、馬鹿馬鹿しく感じられるのではないか。

 なぜなら、終盤力こそが最終的に勝敗を決定づける最も重大な要素だからだ。

 勝率の高い棋士を見れば直ぐに分かることで、序盤の技術もさることながら、つまるところ最終盤で誤った方が負けるのだ。

 コンピュータはますます進化する。

 先の話がタワ言で終わる保証はなく、むしろ現実味を帯びてくるだろう。

 現在、対局規定にその件に関する規定はなく、道義的問題を別とすれば実行する者が出てきても対応策がない。

 常識で考えればコンピュータの使用は禁ずるべきであろうが、隠れて利用されれば発見するのは骨の折れることである。

 あるいは、使用を許可する行き方もあるだろう。いずれにせよ近い将来起こり得る可能性の高い事柄であるからには、早めにアマの意見も含めて、大方の同意を得ておくことが転ばぬ先の杖となる。

(以下略)

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日本将棋連盟は、対局中の棋士のソフト使用による不正行為を防ぐために、

  1. スマートフォンなどの電子機器は対局前にロッカーに預け、対局中の使用を禁止
  2. 対局中の外出禁止

の規制を設けることを発表した。

スマホだめ、外出ダメ…対局中「べからず」二つ追加(毎日新聞)

「棋士のカンニング疑惑を一掃する」 将棋連盟「スマホ持ち込み禁止」の狙い(J-CASTニュース)

対局中にソフトを使用したケースは出ていないが、今回は棋士間で未然に防止するための規制を求める声が高まり、棋士報告会などでの意見交換を経て、連盟常務会が決定したと報道されている。

トップダウンではなくボトムアップ型の意思決定だ。

棋士が不正をしているなどという一部のネット上での疑惑も一掃したい狙いもあるようだ。

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今回の決定は、まさに真部一男八段(当時)が書いた”転ばぬ先の杖”。

李下に冠を整さず(スモモの木ノ下で曲がった冠をかぶり直すと、スモモの実を盗んでいるのではないかと疑惑を持たれる恐れがある。だから、誤解を招かぬよう冠には触れない)の故事そのものと言えるだろう。

外出禁止は厳しいような感じもするが、「李下に冠を整さず」ということで考えると、自然な流れなのかもしれない。

コンピュータは本来、人を助けるもの、便利にしてくれるもの、なのであるが、このような影響を及ぼす時代になってしまった。