将棋世界2001年6月号、山田史生さんの巻頭随筆「酒場にて」より。
若い時は自分の酒の適量が分からず、飲み過ぎて吐いたりしたことが何回かあった。分別がつくに従いそのようなこともなくなったのだが、最近は年と共に適量が減ってきていることに気づかずに、若い時のつもりで飲んでしまい、気分が悪くなったり、翌日二日酔いになったりすることがたまにある。いい年をして汗顔の至りである。
それはさておき、せっかく金を払い、時間を使って飲むのだから酒場では楽しく、気分よく過ごしたいものである。かといって自分だけ楽しければよいというものではなく、酒場側から見ても好まれる客でなくてはなるまい。客が帰ってから店で悪口を言われているような飲み方ではしょうがない。
この項を書くにあたって、意識的に酒場のママやマスターに嫌な客について聞いてみた。金払いが悪い、酒ぐせが悪い、女性にさわりたがる、これが嫌われる客の共通したベスト3で、これは常識から見ても当然であろう。問題は自分ではあまり気づかずに嫌われている場合である。
バーのマスター「まず威張る人。酒場の人間を一段低く見て、アルバイトの女性や青年をすぐ”お前”呼ばわりする人。今の時代、首相だろうが社長だろうが、人間的には誰でも平等。社会的地位があるから、金を払うんだからといって威張ったり、わがままをいう人は嫌われます。また家庭の話はあまりしない方がいい。息子が一流大学へ入ったことを自慢げに言ったり、女房がどうしたこうした、などという話は、店にも他の客にも関係ない。むしろ白けることが多いんです」
スナックのママ「カラオケで他の客に拍手を強要する人。自分のグループに対してならまだしも、関係ない人にまで拍手を求めるのは、場をにぎやかにしているつもりでしょうけれど嫌ですね。また4、5人で急に来て、入れないと”前に来ている客に帰ってもらえ”とか”こんな店もう来ない”など悪態をつく人。電話一本くれていれば何とかなるかもしれないのに、急ではどうしようもない。嫌というより気が回らないんでしょうね」
小料理屋のおかみ「一人で来ていて、他のグループの話にあれこれ口を出す人。親しみを見せているのでしょうが、相手は迷惑がっていることが多いんです。また自分の話ばかりしていて人の話を全く聞かない人。酒を売っているんだから酒に酔うのは仕方ないけれど、周囲に気が回らないほど酔ってしまうのは嫌ですね」
ところで酒場における将棋棋士はどうか。数十人の棋士と酒席を共にしていると思うが、お世辞ではなく概して評判がよいのは喜ばしいことである。将棋棋士の特徴は、割り勘はめったになく、自分が金を払いたがることだろう。勘定を払うには順番のようなものがあって、まず対局があった後なら勝った棋士。先輩、後輩の場合は先輩。地位に差がある場合は上位(稼ぎのよいほう)の棋士。あとは飲みに行きましょうと誘ったほう。このような暗黙の了解がある。だから若手棋士がなまじ「今日は私が」などと言うと「まだ10年早い」と怒られたりすることがあるので、勘定を払うにも気を使わなければならないのである。
将棋に勝つ、強くなる、地位が上がる、ということに直結しているので、酒場では金を払う側に回りたいと棋士は常々思っている。珍しい人種といえようか。
——–
先輩から受けた恩を後輩に返す、棋士の良き伝統。
——–
その日の対局に勝った20代若手棋士が、30代タイトル保持者、40代A級在籍八段、50代九段、を誘って飲みに行ったら誰が払うことになるのか。
なかなか難しい問題でケースバイケースなのだろうが、50代九段として当時の二上達也九段や内藤國雄九段や勝浦修九段などの顔を思い浮かべると、50代九段(最も先輩)が払うことが多かったのではないかと想像できるのだが、その場に当時の中原誠十六世名人がいたらどうなっていたのか、などやはり非常に難しい問題だ。
——–
故・芹沢博文九段も後輩棋士にたくさんご馳走したと言われている。
芹沢九段の場合は、全盛期の中原十六世名人や米長邦雄永世棋聖と一緒に飲む時も芹沢九段が勘定を持っていたわけだが、ツケにすることも多かったようだ。
結局はいろいろな店にツケが残ったまま芹沢九段は亡くなったわけだが、店のママからすると、「芹沢さんが勘定を持つことはないから、お願いだから中原さんや米長さんに払わせてあげて」と思ったかもしれない。