将棋世界1992年3月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ VOL.3 走れ、自由萬歳」より。
マカオには、西堀さんの部下の平田さんに案内していただいた。香港島のマカオフェリーピアからジェット・ホイルで約1時間でマカオに到着する。信じられない近さだ。
マカオといえばカジノである。俗に、東洋のモンテ・カルロなどといわれるが、そんなに高級ではなく、はっきりいって、人種のるつぼ、金の亡者の集まりであって、競輪場や競艇場となんら変わるところではない。
(中略)
入国手続きをすませると、当然ながら葡京酒店に直行。マカオの象徴のようなホテルで、東洋一のカジノが有名である。チェック・インを済ませると、さっそく出撃。郷チャンとチン君はカジノは童貞のようで、ウロウロしている。
(中略)
最初の1時間は良かった、しかし、段々に負けてくる、ここぞ、というときに大張りしてあっさり取られ、心臓の血管が縮むような気分になってくる。
(中略)
かなりやられた自覚があった。退くか。特攻隊の出撃か。迷ったがいったんは寝ろと経験が教えた。
断腸の思いで部屋に帰ると郷田がいて、ビートルズ特集のテレビを見ていた。
こんな所に来てジョージ・ハリスンやポール・マッカートニーを見るなんて、変な奴だ。口惜しくて寝つかれない。気分は、レット・イット・ビーである。
朝、8時に起きた。よく寝た。長旅中は、一度は休憩が必要である。シャワーを浴びて、首を三回、腰を四回まわして、さあ再戦。
ツキにツイた。昨晩の負けを取り戻し、さらに上昇一途。夢のような2時間があっという間に過ぎた。しかしジェット・ホイルの時間がせまってくる。帰りたくないが、帰らなければいけない。ぎりぎりまで粘って、四人でタクシーに駆け込む。本間さんは少しやられ、郷チャンとチン君は、あまりやらなかったようだ。
(中略)
香港の競馬は、沙田と足包馬地の2つである。
(中略)
第1レース。パドックを見ても、返し馬をみても、見たことも聞いたことも聞いたこともない馬ばかりなので、なにがなんだか見当がつかない。仕方がないので、迷ったときはいちにいさん、という競馬の鉄則(そんなものがあるもんか)通りに①威風②三泰③石油之星の三重彩(三連複)を買う。結果は、威風号が直線抜け出しで快勝したもののあとの二頭はどこにもいない。ちぇっ。
第2レース、惜敗。第3レース惨敗。第4レース激敗・・・第7レースボロボロ。
郷チャンは、途中の4レースで中穴を取ってホクホク顔をしている。さすがに前夜、僕がカラオケパブに行っている間にホテルのテレビで競馬の予想をしていただけある。
昔、彼と一緒に函館競馬に行ったときのこと。金曜の夜、郷田は競馬新聞の前夜版を手にすると、あっちの世界にいってしまった。食事をしながら、道を歩きながら、パチンコをしながら、ずっとにらめっこしたままで、たまにゴチャゴチャ呟いている。酒場で、隣に綺麗なオネエチャンが座っているにもかかわらず、調教タイムなぞを熱心に見る。宿に帰って寝ようとすると、いや、俺はまだ研究するという。次の日、起きると新聞にビッチリ買い目が書かれていた。研究して競馬が勝てるなら、暇だらけの将棋指しは全員大金持ちさ、などといって馬鹿にしていたら、ナント、毎レース的中につぐ的中で彼は大勝ちをおさめたのである。どうも将棋指しとは変な人種のようだ。
遂に最終第8レースがやって来た。これまでの損害は4,000HK$。日本円で68,000円である。なにがなんでもチャラにしなきゃ。そこで僕は確率の悪い三重彩狙いをやめて、手堅く単勝で勝負することにした。強そうなのは次の四頭。
1枠 自由萬歳 3枠 原子英雄 4枠 永勝福星 5枠 大班
僕は1枠のフリービューティフル君に我が運命のすべてをたくすことにした。単勝5倍に2,000HK$。ついでに3枠のアトムヒーロー君との連複に500HK$入れた。乾坤一擲とはこのような時に使うべき言葉だろう。
レースが始まった。ゲートが開く。出遅れるなよ。僕は心の中で呟く。向正面。かかるなよ。第4コーナー。ふくれるんじゃない。よし先頭に立った。そのまま、そのまま!
やった!と思った瞬間、青天の霹靂ともいうべき事がおきた。人気薄の7番龍東方君がすごい脚で突っ込んで来たのだ。粘れ―必死の願いは天に届かず、一着7番。二着1番。連複①-⑦。
「クソ馬め、死んでしまえ」
と叫ぶと、西堀さんに、
「香港には牧場がありまへんのや、さかいに、ここの馬、使い物にならなくなったら、みんなソーセージですわ」
といわれた。ダービーを取った馬も足を一本ポキッと折れば、屠殺されてしまうのがサラブレッドの世界だが、ここでは健康な馬が引退してもソーセージやサラミにされてしまうという。悲しからずや。
(以下略)
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この当時のマカオはポルトガル統治下の頃。
先崎学五段(当時)は、ホテルの部屋でビートルズ特集の番組を見ている郷田真隆四段(当時)を「変な奴だ」と書いているが、私も最初はそう思ったが、よくよく考えてみると、外国へ行って積極的に見たいと思うテレビ番組などなく(そもそも言葉がわからない)、聞いたことのある音楽が流れてくる番組が見つかったのは幸運だったと言えるだろう。
この時は12月初旬、12月8日が命日のジョン・レノンを偲んでのビートルズ特集だったのかもしれない。
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「昔、彼と一緒に函館競馬に行ったときのこと」と書かれているが、これこそ、郷田真隆四段と中村修七段(当時)の「点のある・ない論争」があった時の旅行のこと。
先崎学九段が「点のある・ない論争」のことを書いたのが1998年の将棋世界誌上でのことなので、この時はまだネタを暖めていた頃と考えられる。