豊川孝弘五段(当時)「丸山忠久恐るべし!」

将棋世界2001年9月号、豊川孝弘五段(当時)の「丸山忠久という男」より。

 名人について書くというのは、僕にとっていささか難題であるので、1人の友人として、男、丸山忠久について書いていこうと思う。まずは、丸山の将棋界での経歴について簡単に紹介してみよう。

 僕と丸山が初めて会ったのは、昭和60年1月。僕は奨励会1級で17歳、丸山は入会したての6級で14歳だった。僕の初段昇段の一番を、秒読み係としてついてくれた。僕は全く覚えていないのだが、丸山の秒読みの最中に「まじめに読め!」と、僕に叱り付けられたらしい。このような事は、奨励会の中ではたまにある光景だと思う。何となく僕の記憶の中では、丸山は落ち着きの無いガキンチョだったような?気がする。

 そして昭和60年8月28日に、米長邦雄永世棋聖がスポンサーで、奨励会ジュニアチャンピオン戦が行われた。その予選、丸山5級と二段の僕が、3回戦で対戦する事になった。驚くべき事に丸山5級は、秋山初段、木下二段と、2人の有段者を倒しての3回戦進出。そしていよいよ丸山-豊川戦。両者すごい早指しで決着はついた。当時は、当然ながら僕の勝ち。

 話は前後するが、丸山は昭和59年には中学生名人にもなったほどだが、58年・59年の奨励会入会試験を2度受けて両年とも失敗した。(58年は5勝4敗と勝ち越し。59年は1次試験免除で2次試験1勝2敗)。ともかく、その時々の事情はあるのだが、近年なら間違いなく合格している成績だ。そそて、60年1月に研修会より、優秀な成績で奨励会6級に仮入会を果たした。ジュニアチャンピオン戦で対戦以降、僕と丸山は10秒将棋をちょくちょく指すようになったらしい。というのも、僕の方はあまり覚えていないのだが、1局100円何某かの金銭を、僕から奪われた丸山の方は当然、覚えているに決まっている。

 時は何年か経ち、平成元年10月、第6回三段リーグ。丸山は2期目の参加で順位2位、僕は初参加。リーグ戦で、丸山との対戦は組まれていなかったので、彼に「将棋をやろう」と、僕の方からお願いした。ここからが本当の将棋での付き合いの始まりかもしれない。リーグ戦の前日に、朝9時から、持ち時間1時間半の1分将棋を1日2局。今でいうVSの始まりだ。第6回リーグが終わるまで必ず、奨励会の前日に続けた。2人の勝負は、3~4局に1番、僕が勝てるかどうかの手合いだった(う~、今思い出しても悲しい)。そしてリーグ戦終了、丸山・郷田が14勝4敗で四段昇段。丸山は2期目での三段リーグクリア。ちなみに1期目は12勝6敗。僕も14勝4敗で丸山と同星ではあったが、順位の差で頭ハネを食らった。しばらくの間、丸山の顔を見るのがつらかった。当然ながら、今までやっていたVSもこれでおしまい。

 その当時の丸山は、早稲田大学社会科学部の学生でもあった。住まいも木更津の実家ではなく、門前仲町の安アパートに住んでいた。四段になってしばらくしてから、丸山が「もう少しいいところに住みたい」と、僕に相談を持ちかけてきた。その頃の僕は、新高円寺の安アパート住まい。それで、うちの近所の不動産屋で物件を探し、丸山が新高円寺に引っ越してくる事になった。この日から将棋以外での付き合いが始まった。

 僕がよく食べに行っていた定食屋でも、しょっちゅうニアミス。僕の楽しみの銭湯などでも、待ち合わせをしたかのように顔を合わせた。盤を前にするとこんなにも憎たらしい奴はいないのだが、普段の生活では、なかなか素朴でかわいらしいのである。

 ともかく、将棋盤を前にして付き合う事は少なくなったが、ある時は、銭湯帰りにカラオケボックスで絶叫、というような感じで、結構一緒に楽しんだ。皆さんにはあまり、というかほとんど知られていない事と思うが、丸山は泳ぎがとても上手だ。夏になると、よく近所のプールへ、颯爽と泳ぎに出かけた。河童のように泳ぎの上手い丸山に、僕はバタフライ等も教わったりした。

 丸山は、将棋一色、勝負の鬼人間のように思われている事と思うが、意外にそんなでもない。よく遊びよく学んでいるのだ。その当時も、丸山はそうとう勝ちまくっており、対局も多く大変だったはずだが、いつ勉強をしたのか要領良く、大学も留年なしで卒業している(恐るべし!)。

 ここで、将棋の方に話を戻そう。前にも述べたが、三段リーグは2期。C2順位戦も2期、C1は3期、B2は2期、B1は1期、A級は1期目6-2、2期目8-1で、昨年名人に挑戦した。四段になってから名人になるまで、ちょうど10年を費やしている。ちょっと前に、南芳一先生が、扇子に「十年一剣」と揮毫していたが、まさしくそんな感じか……。

 こんな事まで書いていいのか迷ったが、彼は、将棋界という特異な世界の中でも、(僕の目で見て、肌でも感じて)際立って異彩を放っているようだ。例えば、棋界関係者との付き合い。時に控えめに、笑顔で話をかわし、関わりを深く持たない。本音で物事を語らないように取られてしまうのか?

 丸山ファンには、結構イケてるまるちゃんスマイルも、勝負師、特に対戦相手には、厳しく、また複雑なビームとなっているのかもしれない。またまた、丸山忠久恐るべし!

 丸山は、当然ながら飲む・打つ・買うといった事は絶対にない。健康に害のあるタバコなどはもってのほか。夜遊びで午前様になり、昼過ぎてから起き上がる事などはありえない。これは、皆様のご想像通りだと思うのだが、毎日早寝・早起きをしたり、健康に気を使って散歩をしたり、食事に気をつけたりといったように、彼は将棋が強くなる為の生活スタイルを、僕が知っている限り、おそらく20年以上はしっかりと貫いている。誰が見ても、彼はプロ中のプロなのだ。

 今回で名人を2期獲得した訳だが、正直いうと僕は、丸山が名人になるとは、夢にも思わなかった。とりあえず、A級棋士にはなれると思ったが…(それでもすごい事なのだが)。

 最後に、最近、面白い事があった。丸山とは1年半ほど前から同じスポーツジムに通っているのだが、そこのインストラクターの方達が「丸山さんは人を寄せ付けない、何か独特なオーラが出ているんですよ」。そこで僕が「僕からは何か感じます?」と逆に聞いてみた。すると「ぜんぜん、何も!」。やはり、名人になるような人間は、はたから見ても、何か違うものがあるんだなあ、と思い、非常に興味深かった。でも、僕の本当の興味は、この先彼が、どんな「かみさん」をもらうかなんだけどね。

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丸山忠久名人(当時)が谷川浩司九段の挑戦を退け名人位を防衛した頃に書かれた、豊川孝弘五段(当時)の「丸山忠久という男」。

豊川流の熱い思いが伝わってくる。

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丸山忠久九段は「裏表がなく、いつも自然体」、というのが私の印象。

丸山忠久九段の結婚

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このスポーツジムに半年通った段階で、早くも二人に肉体的成果が現れている。

丸山忠久名人(当時)の鍛えの入った体、豊川孝弘五段(当時)の鍛えの入った体

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豊川五段が「僕がよく食べに行っていた定食屋」と書いている定食屋は、高円寺にあった「かぶ山」。

残念ながら、最近閉店してしまったようだ。

丸山忠久九段の納豆巻きの秘密

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この1年ほど前に、深浦康市六段(当時)が「丸山忠久という男」という同じ題名で、記事を書いている。

「◯◯という男」の表現が一番似合うのが、丸山忠久九段ということになるのだろう。

深浦康市六段「「丸山忠久という男」