将棋世界2000年12月号、日本経済新聞の松本治人さんの第48期王座戦〔羽生善治王座-藤井猛竜王〕五番勝負第5局観戦記「長き勝負の続き」より。
対局前日、羽生は早めに対局場入りした。夕方に散歩へ出かけた以外はホテルの中で静養を取っていた。一方の藤井は忙しい。まずチェックインした後、将棋会館で開かれている囲碁部の定例会に律儀に参加(藤井は個性派のメンバーぞろいで、まとめ役としての力量が問われる囲碁部幹事を7年間務めている)。仕事の引き継ぎを済ませた後、また対局場へ逆戻りである。途中、二日前に行われたという竜王戦の予想座談会の模様を聞いて、ニヤリとしていた。
藤井は「竜王戦が始まる直前は、いつも気持ちが高揚してくるけど今年は不思議とない。もう走り始めているから」と言う。逆もまた然りで、こちらもタイトル戦最終局の、一種独特の寂寥感がない。前夜祭で立会人の島朗八段は「芸術品のような今回の王座戦の、あすで終わりと思うと惜しい」とあいさつした。荘重なムードの中で洗練された物言いだったが「来週もまたありますよ」と混ぜっ返す声が出て、一同爆笑のシーンに一変した。対局者は2人ともリラックスして眠れたようだ
(中略)
1図以下の指し手
▲6七金△5五銀▲4八飛△9四歩▲4五歩△3三角▲9六歩△4二銀▲8八角△6四銀▲6五歩△8八角成▲同飛△7五銀▲7七歩(2図)控え室の研究をリードしていたのは島八段と行方六段。さらに勝浦九段、深浦六段らが顔を見せた。1図から▲6五歩の決戦策を、島八段が何通りもサラサラ進めてみせる。次第に検討が活発になってきた。
(中略)
▲6七金は決戦回避だが、これで若手棋士の言う「早く駒をぶつけて、力で決着をつけようという羽生さんの狙い」は封じられたことになる。△5五銀で△7六飛▲同金△6七銀は▲6五歩で後手不利。△9四歩は△7五歩▲8五歩の変化の時に△9三桂を用意している。対局室では羽生が前傾姿勢になり、扇子の先を畳の上で目まぐるしく動かしていた。藤井は斜め右に体を曲げ、どんよりした天気の窓外の風景に目をやっていた。ここから手の殺し合いが続く。
ハッキリした手を指した方が悪くなる。△3三角はある若手によると「本局で一番感動した手」。
(中略)
2図以下の指し手
△7六銀▲同歩△3三角▲7七角△8二飛▲3三角成△同銀▲7七桂△5三角▲3六歩(3図)研究のため姿を見せる棋士はさらに増え、中原永世十段、佐藤九段、神谷七段、鈴木(大)六段ら20人を超えた。4つの継ぎ盤が目まぐるしく動かされ、決戦間近しの雰囲気だった。
2図から3図へと進む間に「振り飛車ペース」の声が多くなる。羽生の△3三角では単に△8二飛と回り△5三銀を目指す方がよかったらしい。▲7七桂が夕食休憩直後の第一着。羽生は「いつの間にか悪くなっていた」と言う。控え室でも「藤井流の”重たい振り飛車”のペースだな」「矢倉みたいな振り飛車か」といった声が上がった。
(中略)
(つづく)
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この対局はフォーシーズンズホテル椿山荘東京(当時)で行われており、多くの棋士が検討に訪れている。
この時は、王座戦で羽生-藤井戦、続いて竜王戦でも羽生-藤井戦が行われるという流れだった。
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藤井猛九段の振り飛車は、自らも「居飛車感覚の振り飛車」と語っているように、軽妙に捌く振り飛車とは趣を異にする。
居飛車感覚の振り飛車だからこそ、藤井システムが誕生したと言えるだろう。
1図から2図に至るまでが、重たい振り飛車、矢倉みたいな振り飛車の指し回しだ。
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私が昭和のガチガチの振り飛車党だからかもしれないが、振り飛車にした後、先手で言えば飛車を1筋~4筋に振り戻すのは非常に抵抗があってできなかった(だから強くなれない)。
大山康晴十五世名人が、先手居飛車棒銀に対して△7二飛と袖飛車(中飛車や四間飛車から、玉の横や上に飛車を転回する)にしたりすると、「ああぁあ」と少しガッカリした時期もあった。
例えば、三間飛車にしたなら、飛車は3筋(7筋)から動かずに戦い、飛車を3筋(7筋)から成り込んでこそ三間飛車の理想だと思っていた(だから強くなれない)。
ただし、これは私が若い頃のこだわりであり。年齢を経るごとにそのようなこだわりは少なくなってきている。
若くなくなるということは悪いことばかりではない、と思う事例の一つだ。