色紙を書かせたら右に出る者なし

将棋世界1982年10月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。

 大山は対局中の雑談で「木村先生は、どれくらい色紙を書いていますかねえ」と問いかけてきた。いつも「時刻表」を見ているように”数の遊び”を楽しむのが、この人のクセだ。「もう、わたしのほうが多いかな」と付け加えた。”数は多いほうがいい”というのも、この人の考え方だ。それからの話に思考にふけっていた中原も目を見開いた。
「わたしはねえ、1時間に60枚書きますよ。もっとも、判を押すと、それに時間をとられて50枚しかできないけどね―」
 この計算なら、数に弱いわたしにもよくわかる。1分1枚なのだ。そういえば、いつも連盟の理事室には大山の色紙が百花繚乱と並べられている。毛筆の色紙は1時間では乾かぬので、2時間分の120枚が乱舞することになるのだ。
 中原は「えーっ」といって「ぼくは20枚ぐらいですが」と、その速さに驚嘆した。せっかちな大山、なにごとにもじっくりの中原の性格をここに見た気がした。
 しかも、大山のボキャブラリーは多い。「王将」はもっとも人気のあるものだが、性格を表わす「一歩千金」「己勝」「和」「調和」、さらには「忍」「洗心」「盤上心鏡」など、勝負師としての心境も筆にたくすばかりか、「あなたのお名前は?」などと聞いてその一文字を入れてアドリブで熟語を作るなど、実に芸達者(?)なのだ。
 想像もできぬが、大山の色紙はン十万枚に及んでいると思う。いま連盟の代理部では、これを8,000円で売っている。―とするとン十億円。しかし、この多くは会館建設の寄金者へのお礼として消えている。いかにも大山らしいが、やはり大山は几帳面。
「ハンコも自分の思うように押したいですからね」―でも、わたしの家の大山の色紙に押されたハンコは妙にひん曲がっている。

 速いといえば加藤一二三十段も速い。芸術を好むインテリ棋士だけに、「野の百合 空の鳥」「花鳥風月」などとも書き、「直感精読」「心技」とも揮毫する。わたしが見てびっくりしたのは、いかにもクリスチャンらしい「信仰心」。だが速いのは書くときだけ。普及部の羽賀君に聞いた。

「書くのはものすごく速いんですが、そのあとで自分の書いた字をじっと見つめているんです。ナルシストなんて思っちゃうのは悪いかな」
 その加藤がデパートの将棋まつりで、本にサインしているのを、わたしも見て驚いた。速い速い。大きな文字を太々と書き、さて自分の署名だ。「加藤」も速かった。しかし、そのあとに目を見張ったものだ。
 なんと「一」の字を7本書く。そして縦に1本、そして「段」の字を加えた。おわかりだろうか、これで「一二三十段」となるのである。
  むかし、坂田三吉王将が「三吉」とサイン(とはいわなかった時代だが)をするのに、横に「一」の字を7本書き、あとから3本の縦の線を引いたということを聞いてはいる。これは、最近出た「大阪府の民話』(偕成社)にも出ていることだが、坂田は、俗にいわれているようにほんとうに文盲に近かったらしい。でも、加藤の場合は、早稲田大学にまで学んだとおりのインテリ棋士。しかも書き順が決して違っていないことを確かめていただきたい。

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1時間に50枚のペースで揮毫される大山康晴十五世名人の色紙。

日本中に多くの大山十五世名人の色紙が存在するわけだが、アカシヤ書店での大山十五世名人の色紙の値段を見てみると、15,000円から20,000円。

それほど市場に出回っていないということだ。

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名前の一文字を入れた熟語の色紙とは素晴らしい。

手に入れた人は本当に喜んでくれることだろう。

私の場合だとどのような言葉を書いてもらえそうか考えてみた。

「木を見て森を見ず」「充血」「弘法も筆の誤り」

何か微妙な、あまり嬉しくないような言葉が思い浮かぶ…

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加藤一二三十段(当時)の「一」の字を連続7本書きはもちろん当時のことだが、現在でも「一」の字を連続6本書きなのだから、凄いといえば凄い。