行方尚史六段(当時)「藤井勝ちですが、正しくは寄せていませんね」

昨日からの続き。

将棋世界2002年4月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 大阪の谷川対佐藤戦はあっさり終わって佐藤勝ち。東京では、羽生、三浦、森下が優勢。どうやらファン待望の大混戦にはなりそうもない。

 午前零時を回ったころ、大広間に入って、手前の間と中央の間の中間に座り、藤井対先崎戦と森下対森内戦の両方を観望することにした。この時刻のこの場所は特等席である。

 右側は、粘っこく金銀を打ち合っている。千日手もあり得る局面だ。一方、左側は、森下八段の指し方に勢いがなく、ずるずる後退している感じだ。二人には数年前の、棋史に残る熱戦があるが、今日はその正反対だ、などと思っていると、突然「負けました」の声とともに、森下八段が投げた。まだ中盤だが、投げてもおかしくないほどの差がついていた。あっけない、といえばそれまでだが、出だし2連敗から、日頃の精進が報われたかたちで挑戦者争いに首を突っ込みながら、こういう負け方をするものだろうか。森下八段の口ぐせでいえば「信じられません」ということになる。

 二人は感想戦をやるため、対局室をすぐ出た。この10分くらい前に、青野九段が投げていたが、こちらはその場で静かに感想戦をやっていた。目前の、藤井九段と先崎八段は、一手一手に、祈りと念力をかけて指しつづけている。

4図以下の指し手
△8一銀▲6四歩△6八銀打▲7八金△7九銀成▲同銀△6八金▲同金△同銀成▲7八金△7九成銀▲同金△6八銀▲8八銀△7九銀成▲同銀△6八金(5図)

 控え室に戻り、継ぎ盤の研究を見ていると、藤井優勢になったようである。機嫌のよい行方六段に形勢を聞くと「△8一銀はなかなかのタイミングで、藤井勝ちですが、正しくは寄せていませんね」気取ったことを言った。

 その正しい寄せは、継ぎ盤の前の、橋本、千葉両四段が発見していた。△8一銀では、△6八銀打が早い寄せで、▲8二金△9四玉▲9六歩で、後手負けに見えるが、△7九飛成▲同銀△同銀成▲9八玉△8九角▲9七玉のとき、△8八銀の捨て駒があり、▲同竜、▲同玉どちらで取っても詰む。途中△8九角を▲同竜は、△9七金▲同玉△9六歩▲同玉△9五歩以下後手勝ち。

 感想戦で橋本君がこの順を言うと、両対局者は「なるほど」と感心したが、実戦は△8一銀の方を選ぶだろう。

 ▲6四歩に△6八銀打から、またもや金銀を打ち合い、千日手かと思わせる。

5図以下の指し手
▲9八玉△7九飛成▲8九金△9六歩▲9三銀△9七歩成▲同玉△9六歩▲同玉△9五銀▲同玉△9四金▲9六玉△1九竜(6図)

 我慢しきれなくなったのか、あるいは勝ちと読んだか、ここで先崎八段は▲9八玉と勝負に出た。

 これは△7九飛成をうながし、▲8九金と受けて、退っ引きならない局面に持ち込んだもの。受けの竜の利きが頼りだが、この3手先に、先崎好みの手が用意されていた。

 後手は飛車を渡せない。▲7二銀△同銀▲9二銀の筋で詰んでしまう。かといって、▲8九金に△1九竜と逃げるようでは、▲6三歩成で、簡単に負ける。

 で、△9六歩と攻める。▲同歩なら、△同香と走り、▲9七歩△同香成▲同玉△9六歩に▲同竜は△8八銀以下詰み。▲同玉も△9五歩以下寄る。このあたり、まったくややこしい手順だが、さらに難しいのが、次の▲9三銀だ。

 控え室では今売り出し中の松尾四段が、即座にこの銀を打っていた。見ていた私は目がくらくらした。

 この▲9三銀が狙いで、先崎八段はこれにすがったのである。

 しかし、こういったうまそうな手は、勝負将棋ではたいがいうまくいかない。鋭い手より、野垂れ死覚悟のような手、5図でいえば▲7八金と受ける、などの方が勝てるものである。丸山名人なら▲9三銀といった類の手は、浮かんでも絶対に指さないだろう。

 結局、▲9八玉から▲9三銀を狙ったのが敗因となった。△9七歩成から、9筋の要点を固め、一歩足りないが、△1九竜と香を取って、いっぺんに後手勝ちとなった。

 先崎八段は局後に泣いたものだ。

「竜(7九の)がどこへ行くんだろうと思った。王様の回りしか眼に入ってないからな。香を取られて頭が空っぽになりましたよ。いや、もう投げる心構えをしていました」

 大山名人はどんなときも、指す前にぐるりと眼を回して盤上の隅々までたしかめた。それを習慣にしていたのは、こういった事態を避ける知恵だったか。

6図以下の指し手
▲9七玉△9五香▲9六歩△同香▲同竜△9五歩▲8七竜△9三香▲9八玉△9六銀▲7九香(7図)

 後手がいちばん欲しい駒は香。それを拾ったのだからこたえられない。

 さっそく△9五香と活用し、以下△9五歩と押さえ込んでから、△9三香と銀を外す。これで将棋は終わり。控え室の継ぎ盤からみんなは眼をそらし、なんとなく畳に手を突く格好になった。

「まだわからない」私は言った。「横断歩道を渡り切り、歩道に上がったら轢かれる、みたいなことが起こるもんだよ」

7図以下の指し手
△同金▲同金△9七香▲同竜△同銀成▲同玉△6四金(8図)

 ここからの正しい寄せ方など、どうでもよいようなもので、要するに金を渡さなければよい。△8七銀成▲同玉△8五歩。あるいは単に△5六角。手堅く指すなら黙って△6四金。お好みの手を指せばよい。それなのに、よりによって△同金とやった。控え室では奇声が上がった。

 ▲7九同金と取られるのをうっかりしたとは、ウソみたいな話だが、事実は小説より奇なり、である。慌てて△9七香と打ったが、これも駒を渡しただけの悪手。詰まないから△6四金と手を戻したが、このとき藤井九段は、うつむき奥歯をかみしめていた。

8図以下の指し手
▲6九香△9六歩▲8七玉△2八竜▲6八歩△8五歩▲同歩△8六歩▲7八玉△8五桂▲同桂△同金▲8四歩△同金▲6二角成△6六桂▲8九玉△8七飛▲8八銀△5六角(9図)  
 まで、藤井九段の勝ち

 先崎八段は、ここでまた祈りを込めて▲6九香と打った。一手すきになるかもしれぬ、という手だが、それも空しく、△8五歩と突かれて、今度こそ終わった。

 ▲6九香でなく、▲8二銀とか▲6二銀とか、厳しく迫ればの意見もあったが、それを言っても仕方がない。結局は、先崎八段に運がなかったのである。

 終了は午前1時21分。藤井九段は4勝し、残留が確定した。長い感想戦だったが、やっているときは、二人ともしっかりしていた。ところが終えて4階のホールに出て来たときは、どちらも魂が抜けたみたいになっていた。

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4図から5図にかけて千日手のような手順が続くが、微妙に違っていて、5図の△6八金打に▲7八金または▲8八銀打と受けても△5六角の筋がある。

藤井猛九段優勢。

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「こういったうまそうな手は、勝負将棋ではたいがいうまくいかない」と書かれている▲9三銀は、△同香はなら▲同角成△同玉▲9六竜(後手は歩切れ)のあと、竜を取る狙いなのだろうか。

藤井猛九段勝勢。

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「よりによって△同金とやった。控え室では奇声が上がった」。

7図からの△7九同金▲同金で、先手が金を入手したため、△同竜だと、後手玉は▲7二銀△同玉▲6三歩成以下詰んでしまう。

先崎八段(当時)優勢。

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▲6九香からは藤井九段勝勢。

勝つのは本当に大変だと痛感させられる一局。

「どちらも魂が抜けたみたいになっていた」のがとても理解できる。

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「横断歩道を渡り切り、歩道に上がったら轢かれる、みたいなことが起こるもんだよ」という言葉で思い出すのは、映画「13日の金曜日」のラストシーン。

殺人鬼(ジェイソンの母)を返り討ちにして、早朝の湖に浮かぶボートで呆然としながらもくつろぐヒロイン。

湖畔にはパトカーでやってきた救援の警官たちの姿。

「いやー、怖かったけれどもこれで終わりか」と思った矢先に、湖の中から20年以上も消息不明だった子供のままのジェイソン(かなりな異形で非常に恐ろしい)が突然現れて、あっという間にヒロインを湖の中へ引きずり込む。

非常に美しい湖のシーンだっただけに、かなり衝撃的だった。