中原誠十六世名人「あっちは方角が悪いからやめました」

将棋世界1982年12月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。

 相手の中原だって、かなりの映画ファンだ。これもまた今期の王位戦がらみの話だ。中原が無冠になった翌日の午後、連盟の近くの寿司屋に寄ったら、中原の弟弟子の田中寅彦六段がいた。そんな日だから、自然と話は王位戦のほうへ向く。

「中原名人も12年ぶりの無冠。やはり寂しいでしょうね」と田中は心配顔だ。

「オレも、永年中原さんにはいろいろと面倒をかけているんで、気になっているんだ」などとわたしもいって、カン酒を頼んでもう呑みだした。

 そして、勢いに乗って中原の家に電話してしまった。中原本人が出てきた。

「いま寅ちゃんといっしょに話したんだけど、近々いっぱいやりませんか?」

「そうですね、ちょうど王位戦の7局目の日程があいていますから、新宿あたりで食事しながら呑みましょうか」

 実際にはなくなってしまった対局日を7局目というあたり、中原らしいユーモアのセンスだ。

 その夜、3人のほかにやはり弟弟子の大島映二四段も加わって、4人でにぎやかに呑んだ。その席で中原「能智さん、こんどの将棋世界の棋士の楽しみではなにを書くんですか?」と聞く。「映画でもやろうかと思っているんですよ」と答えると、三人とも映画好き、いろいろなおもしろい話が出てきた。

 田中はギターが得意なので、「何度もロバート・レッドフォード主演の”追憶”を見ました。その結末にひかれたんです」といったあと、「いま、私の子供は映画に出演してるんです」と異なことをいう。

「しかし、まだ赤ちゃんだろ?」と聞き返すと「ええ、9ヵ月ですが、女房(タレント・日下ひろみさん)といっしょに、ある企業内PRビデオに出たんです。誠を泣かせたり笑わせたりするのにだいぶ苦労したらしいですが」

 これを聞き、大先輩の誠はにこにこ笑っている。

 次は大島だ。いつもはにかんだように話し出すが、この夜もそうだ。

「ぼくは最近、将棋世界の竹内君といっしょにアニメ映画の”千年女王”(松本零士原作)を見に行ったんですが中は子供ばっかり。でも、女王の顔があんまりきれいなんで、この間また見に行っちゃったんです。そして、券が余ったのでマンガ狂の高橋君(道雄五段)にあげようとしたら、『もう見ました』といわれちゃいましたよ。彼はマンガ映画は見逃さないみたいですね」

 そして、しんがりは中原だ。

「ぼくも子供のころから映画は大好きでしたね」といって少年時代を振り返って話し出す。

「チャンバラから西部劇、なんでも見ましたよ。小学1年のころ、塩釜で佐貝正次郎さんという人に将棋を習ったんですが、その人の家のすぐ裏が映画館で、将棋のお稽古を受けているときに、いつもチャンバラの音などが聞こえてきて、気が入らなくなり、よく怒られました」

 そういえば、いつか中原後援会刊行の「まこちゃんの思い出」という小冊子で、佐貝氏が似たようなことを書いていたのを思い出す。少しだけ転載させていただく。

「そんなまこちゃんにも、やはりどうにもならないこともありました。2時か2時半頃来て二番ぐらいすると、外にはこれまた毎日欠かさない紙芝居屋の、チャンチャンと鳴る拍子木の音が聞こえてくるのでした。その魅力にはまいったとみえ、駒を指しながら私の顔を見て、もじもじとした態度で「小休止?」をつげることも、たびたびありました」

 いくら将棋が好きとはいえ、まだ小学1、2年ではそうだろう。中原が子供時代のことを話しはじめると、実に楽しそうな顔になる。また続ける。

「そのあと、仙台の石川孟司さんという人の指導を受けに通うことになったんですが、その人がまた映画館の中で売店をやっていたんです。ただで見せてくれるんで洋画や邦画など、なんでも見ましたよ。そのころは三本立てでね」

(中略)

 そこらで中原に「中原さんは、ポルノなんか、見たことあるの?」と聞いてみたら「いや、まあ―。それより塚田先生(正夫名誉十段)がたいへん映画好きでした。先生から『空が出てくれば映画は終わりなんだ』という名言を聞いたことがありますよ。たしか、映画評論も書かれていたはずですよ」とうまく逃げを打ち、ナゾめいたことをいった。

「この間、好きな小津安二郎監督の作を三鷹の映画館でやっていたので、見に行こうと思ったんですけど、あっちは方角が悪いからやめました」

 これに田中と大島は大爆笑したが、わたしはキョトンとしてしまった。田中は「ほらほら、能智さんは新名人の住んでいるところを知らないんですか}―中原も口が悪い。その後、十段戦の挑戦者にもなり、ますます二人の間はおもしろい。

(以下略)

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中原誠十六世名人は1947年生まれで、奨励会入会が1958年。

日本でテレビ放送が開始されたのは1953年だが、家庭に普及するのは、1959年、皇太子 明仁親王(今上天皇)御成婚の中継があった以降。

そういうわけなので、中原十六世名人の子供時代は、映画が全盛で、街頭紙芝居も盛んだった頃。

映像といえば映画しかなかった時代で、生活における映画の比重が今よりもはるかに大きかったと言えるだろう。

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田中寅彦六段(当時)の「いま、私の子供は映画に出演してるんです」の赤ちゃんは、元奨励会員で現在は囲碁将棋チャンネルの田中誠さん。

『追憶』は1974年、田中寅彦九段が17歳の時の映画。

『千年女王』は1982年、大島映二七段が25歳の時に上映された。

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中原誠十六世名人の「この間、好きな小津安二郎監督の作を三鷹の映画館でやっていたので、見に行こうと思ったんですけど、あっちは方角が悪いからやめました」。

これは、中原十六世名人が1980年に十段位、1982年に名人位を加藤一二三九段に奪われており、その加藤一二三九段が三鷹に住んでいたことから、そうなったという話。

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私が生まれて初めて見た映画は、まだ幼稚園に入る前、『キングコング対ゴジラ』(1962年)だと思う。

以下、

  • 『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)ゴジラ、キングギドラ、モスラの幼虫、ラドンが登場する超豪華怪獣映画。
  • 『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年)地底怪獣はバラゴン。プラモデルを買った。
  • 『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)ガイラは人を食べる。ガイラが怖くて、トラウマになった。
  • 『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)ギャオスも人を食べるがそれほど怖くなかった。ギャオスのプラモデルは買った。
  • 『ドラキュラ’72』(1972年)クリストファー・リーとピーター・カッシングの黄金コンビ。
  • 『エクソシスト』(1973年)後にキリスト教(プロテスタント)の牧師となった高校の同級生と見に行った。

大学に入ってからは見る映画の傾向は変わったが、こうやって見ると、怪奇系にかなり偏っていたことが分かる。

現在の私が最も高く評価する映画は、『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART II』『ニュー・シネマ・パラダイス』。

よく普通に変われたと思う。