「山に例えれば升田がすごい険しい山でね、大山の方はツルツルの山で」

将棋世界1985年4月号、加藤治郎名誉九段の「この面白い芝居からは、目が離せないねえ」(前編)」より。聞き書きは香太さん。

 観戦記は昭和24年の夏からですから36年になるな。最初は朝日の名人戦でそれをやめて一時なにもなくなったんだけど、同情が集まってね(笑)。大阪新聞、東京新聞とやるようになってそれから日経の王座戦とサンケイの棋聖戦をやるようになったのかな。一時は4つやってて大変な思いもしました。

(中略)

 一番の好局とか、思い出とかいっても、いろいろありすぎてね。木村-升田、木村-大山、升田-大山、大山-山田といったその時代、その時代のトップ同士の対戦を目の当たりにしてきたんだから。

 でも、一つ面白かったのは、大友昇五段(現八段・退役)が大阪新聞の東西勝ち抜き戦で14連勝した時。彼は東京から大阪へ行って対局することが多かったんですよ。それでなにかのきっかけで、京都の学者さん達が大友の後援会をつくったんだな。そうこうしているうちに、大友が京都である女性と知り会うことになった。それを観戦記で追っているうちにとうとう結婚まで進んでね、観戦記が一本の連載小説のようになったことがあったね。

 今は一人の観戦記者がある棋戦で一人の棋士をずっと書き続けることなんてないからね。今はないね、こういうことは。

 今の将棋界の隆盛の端緒となったのが名人戦が出来た時で、それが昭和10年でしょ。ボクらがその頃、ようやくこの世界に入ってきた。だから将棋界の黎明期から今の隆盛期までずっと見てこられたわけで、そういう意味では一番いい時に生まれてきたかもしれない。

(中略)

 大山対升田にしても木村対升田にしても、あの時代はタイトルを取るってことだけじゃなくて、その人間すべてを倒すんだという意識がありましたね。その人間をやっつけるという感じだった。それが最近はタイトルを目標にするっていう感じになってきてますよね。

 そうねえ、どっちが上かっていうことは言えないけども、他の上に上がろうとする新鋭たちにとっては、大山、升田時代の方が困難だったんじゃないのかな。というのは、山に例えれば升田がすごい険しい山でね、大山の方はツルツルの山で(笑)。相当登山法を心得た者でも二つの山を同時に征服することはできなかったわけですよ。

 そう考えると、やっぱり大山、升田の全盛時代の方が今より少し上かなあ。そう感じるのは昔の方が今より番数が少なかったこともあるかもしれない。一局ごとに全力で集中できたからね。今は米長の例をあげてみても、一局ごとに全力出してたら体がもたないでしょう。番数が増えたというのは、いろんなところに影響してくるんじゃないかな。

(以下略)

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故・大友昇九段は森雞二九段と郷田真隆九段の師匠で、NHK杯戦など棋戦優勝3回、A級在籍1期、41歳の若さで引退をしている。

大友昇五段(当時)が東西勝ち抜き戦で14連勝して優勝したのが1956年、25歳の時。

この時に知り合った奥様とは後に離婚をしている。

故・団鬼六さんは、大友昇九段を題材とした小説を書きたかったと書いており、大友昇九段のその後の人生も、エピソードがいろいろとあったのだと思われる。

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「山に例えれば升田がすごい険しい山でね、大山の方はツルツルの山」

険しい山とツルツルの山、どちらか選べと言われたら、どちらを選ぶだろう。

険しい山の登山は世界中に数多く成功事例があるが、ツルツルの山の登山事例はない、というかツルツルの山自体がない。

ツルツルの山は、それほど険しくはないけれども、前日の雨で岩がツルツルに滑りやすく、土がぬかるみになっている山と考えたほうが良いのだろう。

やはり、どちらの山も登りたくない。

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山ではないが、乾いたツルツルに見える断崖を何も使わずに登った『ミッション:インポッシブル2』でのトム・クルーズを思い出してしまう。

このシーンはCGなし、スタントマンなしで、トム・クルーズ自身が本当に登ったというのだから凄い。