「将棋の神様は、いらぬ情けをかけてくれたと思う」

将棋世界1986年3月号、河口俊彦六段(当時)の「二流か超一流か」より。

 1年前の2月の中旬、私が将棋会館3階の編集室にいると、真部がスッと入ってきた。顔は白ちゃけて脂気がなく、あきらかに憔悴の色が見てとれた。

 後に知ったのだが、彼はこのときプライベートの問題にけりをつけて来たのだった。そんな気配はうすうす感じていたので、なんとなく気づまりで、

「どうだい」

「とっても元気ですよ、武宮さんに二子で打ってもらいました」

 などと意味もない会話を交わしただけだった。真部は経理部へ行き、旅費を受け取って、そのまま大阪へ発った。

 彼が対戦したのは福崎だが、予想通りの惨敗だった。負けたのはしょうがないとしても内容がわるすぎた。これで2勝9敗。同じ日、東京では陥落線上にいる佐藤(大)と西村が敗れたので、真部の陥落は決定しなかったが、いちばん危険な立場なことは変わりなかった。

 順位戦がそんな成績であれば、他社棋戦もよいわけがない。ただ、棋王戦だけは好調であと2番勝てば挑戦者、というところまで勝ち進んでいた。せめてここでの心意気は十分あったろうが、田中(寅9戦で敗れ、望みはすべて潰えた。このときは私が観戦記を担当したので一部始終を見ていたが、真部は、肝心の勝負所で腑抜けのような手を指したのである。将棋もそうなら、表情、服装など全体の印象が、キリッとしてなく、存在そのものが虚ろに見えた。私は降級は決まったようなものだし、落ちるところまで落ちた、と思った。そこで、対局日誌に、二流で終わるか超一流になるか、人生の岐路に立っている、と書きつけた。

 B1組順位戦の最終戦は3月22日に行われた。真部の相手は佐藤(大)。負けた方が降級だが、勝ったとしても、西村対石田戦で西村が勝てば、真部、佐藤が落ちる。つまり他力本願だから二人の助かる望みはうすかったのである。

 佐藤対真部戦は、序盤から波乱含みで、最初佐藤に小さな失策が出たが、真部にも手順前後があり、駒組戦が終わったところでは、佐藤が優位に立った。それが1図で、ここから佐藤の狙いすました攻めが始まる。

1図からの指手
△6五歩▲同歩△4五歩▲同歩△8五歩▲同歩△8六歩▲同銀△9九角成(2図)

 まず△6五歩と打ち捨て、次に△4五歩で角道を通す。そして△8五歩は先手陣の最急所を突いた。こんな気持のよい攻めは、めったにあるもんじゃない。

 真部はいうなりに▲同歩と取ったが、△8六歩と打たれて参った。この歩は取らなければならないが、▲同玉では、△6五飛と出られて次の△8五飛が受けにくい。そこで、勝手にしやがれ、とばかり▲8六同銀。あきれたことに△9九角成と成り込まれてしまった。

 2図は先手必敗。

 これほどひどくなれば真部もかえって気が楽になったはずだ。もともと他力本願なのだし、と自らを慰める口実もあった。そもそも戦う前から、他力をたのみに執念を燃やす気になれなかっただろう。

 一方、佐藤はそうではなかった。口では「真部君が助かるよ」と言っていたが、助かりたい気持ちは真部より強かった。そこでこの局面である。勝ったぞ、助かりそうだ、と思った瞬間、おかしくなった。

 2図から真部は▲7七桂。対して佐藤は長考して△6五銀と勝ちに出た。この手が悪手。△9四歩▲2九飛△9六香と指せば、真部の首は飛んでいた。

 △6五銀と出た後も佐藤にチャンスがないわけでもなかったが、こういうときは、やり損なったの後悔の念がいつまでも残って、結局勝てないものである。

 そうして真部が勝ちを拾ったら、西村も負けており、奇跡的に真部が助かってしまった。

 編集部のS君から「昨年中でいちばん印象に残っている手を選んで、なにか話を書いてくれませんか」という依頼があったとき、すぐ浮かんだのが2図の局面だった。

 真部が助かったのは本当に幸運だったのだろうか?あれ以来ずっと小骨がのどに引っかかっているような気分だった。あるとき、たしか真部が今期の順位戦で3連勝した直後だが「助かったのがよかったのかな」と訊いた。彼は「あたり前じゃないですか」としごく明るかった。3連勝の勢いに気圧され、そうなんだろうなと納得し、このことは忘れてしまった。

 ところが、夏から年を越して現在にいたり学べの成績はさっぱりである。二流に定着してしまったようではないか。再び、あの運不運が気になりだした。

 考えてみればおかしな話である。他人の運なんてどうだっていいじゃないか。それこそ余計なお世話というものである。しかしわかっていても、なお書きたくなる。それは、真部や田中(寅)はファンにアピールする何かを持った棋士であり、彼等が勝ってくれないと将棋界が活気づかないからだ。

 私が、人生の岐路に立っている、と書いたのには、禍をきっかけに超一流になってくれの願いがあった。升田・大山、そして米長、超一流の人達はそこに達するまでに、どうしようもないドン底状態を一度は味わっているのではないだろうか。私はそういう気がする。それが知られていないのは、強靭な意志でそれに耐え、なにかの哲学を得て禍を福に転じたからである。超一流になるためには、人生の辛酸をなめる必要があるだろう。だから、若手の有望棋士、たとえば中村、塚田、南等が、今のままの人生を送って、升田、大山の域に達するとは思えない。

 もし、真部がB2組に落ちていれば、あるいはそのまま腐ってしまったかもしれない。反対に、あの独特の暗さ、冷たさに底しれぬものが加わり、将棋に凄味が出る、ということもあっただろう。将棋の神様は、いらぬ情けをかけてくれたと思う。

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「彼はこのときプライベートの問題にけりをつけて来たのだった」のプライベートの問題とは離婚のこと。

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真部一男七段(当時)の、この文章が書かれた前後の順位戦での戦績は次の通り。

1981年度 29歳 B級1組 8勝4敗
1982年度 30歳 B級1組 6勝6敗
1983年度 31歳 B級1組 7勝5敗
1984年度 32歳 B級1組 3勝9敗(上記の助かった期)
1985年度 33歳 B級1組 5勝8敗(この文章が書かれた期)
1986年度 34歳 B級1組 5勝6敗
1987年度 35歳 B級1組 9勝3敗(A級に昇級)
1988年度 36歳 A級 2勝7敗(降級)
1989年度 37歳 B級1組 8勝4敗(A級に昇級)
1990年度 38歳 A級 1勝8敗(降級)
1991年度 39歳 B級1組 4勝8敗(降級)

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河口俊彦六段(当時)の「真部が助かったのは本当に幸運だったのだろうか?」、「もし、真部がB2組に落ちていれば、あるいはそのまま腐ってしまったかもしれない。反対に、あの独特の暗さ、冷たさに底しれぬものが加わり、将棋に凄味が出る、ということもあっただろう」は、正しかったのかもしれないし、正しくなかったのかもしれないし、やはり、歴史上の「たられば」は、分析が非常に難しい。

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なおかつ、真部九段は、1980年代後半から首が動かなくなる奇病にかかり、それが成績にも影響したと言われている。

河口六段は「将棋の神様は、いらぬ情けをかけてくれたと思う」と書いているが、その2~3年後から真部九段はそれからずっと続く首の病気にかかるわけで、将棋の神様なんていないんじゃないか、という気持ちにもなってくる。