将棋世界2004年9月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
原田泰夫先生が亡くなった。
盤寿(81歳)といういかにも棋士にふさわしい年齢であった。
先生は加藤治郎門下であるから私の兄弟子にあたる。
棋界では兄弟子の地位が高くても、また年齢が離れていても”先生”とは云わず”さん”と呼ぶべし、とは芹沢博文の教えではあったが、とてもじゃないが原田先生の貫禄は私などが”さん”などと呼べるはずもなかった。
26歳でA級八段となり、20代から理事職をコナし、1961年36歳の若さで将棋連盟会長となり、6年間務め上げておられた。
大家であり棋界の重鎮なのである。
先生はご自分を僕とか私とは云わず、「原田は」と云っておられた。
(中略)
中には「原田は」と云うのを気に入らない者もいて「あんなに自分の名前を宣伝することはない」などと云ったりしていたが、先生にそのような功利的な考えは毛頭なく、いつも考えておられたのは将棋の世界全体の発展であった。
それを、界、道、盟、の精神と表現されていた。
将棋にかかわる総てを将棋界として、どうすれば良くなるかを考え、将棋というゲームをただの勝負事と捉えず、将棋道として日本の伝統文化、芸道と位置づける。
それゆえ、礼儀、作法を重んじ様式美を大切にする。
だから先生は外出時にはいつも羽織袴を着用されていた。
履き物は下駄、ただし下駄は足場によっては滑るので、私などは中年になってからは草履にしているが、先生は足腰も頑丈だったのだろう。
最後の盟、これは将棋連盟、前の二つを踏まえた上で棋界の牽引役としての将棋連盟はどうすべきかを考えなければならないと、ことあるごとに云っておられた。
道の精神から見て先生は千日手が大キライであった。
40年以上も前から、ファンのことを考えない千日手は将棋の癌だと云い続けられてこられた。
私も同感だが、勝たねばならぬのまた棋士の宿命、いまだ妙案は見つかっていない。
今のところは各人の自覚をまつよりないといった状況である。
若い奨励会員に「君は将来の八冠王だ」とおだてる。先生の発音では「ハチカンオウ」ではなく「ハチクヮンオウ」となる。タイトル戦の立会人として旅館に行けば宴席で中年の仲居さんに「巨匠」とか「もと乙女」とか呼んで呵々大笑されていた。茶目っ気たっぷりでもあったのだ。
棋士として凄いな、と思うのはB級2組まで落ちてから、B1へ上がりさらにA級に復帰されたことである。
B1からならいざしらず、B2からの復活は本当に大変なことなのだ。
48歳の時であった。
石川達三の小説の題名になぞらえて「四十八歳の抵抗です」と云い、会心の笑顔を見せておられた。
亡くなった日の夕刻、弟子の近藤五段から電話がかかってきた。
通夜や葬儀の連絡だ。
沈痛な声であり時折洟をすすっている様子が伝わってくる。
晩年の弟子ということもあり、ひとしお可愛がられていただけに、普段は陽気な近藤の寂しさ悲しさがよく分かる。
近藤から素敵な話を聞いた。
亡くなる4日前に先生は連盟に行きたいと云い出したそうだ。
さすがに弱っておられて近藤が付き添った。連盟では職員の人達と話を交わし理事室にも訪れ、挨拶をされたそうである。各理事もある程度先生の病状については知っているから、それぞれ衿を正して聞いていたという。
残り時間を知っておられたかに見える。それにしても、界、道、盟と云い続け三手の読みを説いた棋士原田泰夫の見事な終局図であった。
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原田泰夫九段は、一人称は「原田」、奥様のことは「敵」、観戦記者は「巨匠」、講演での聴衆の女性に対しては「淑女」「乙女」「令夫人」「天女」だった。
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原田九段は、自分よりも上の年齢の女性に対しては「天女」と言う、というような話をされていたことがあったが、初対面の若い女性に「おおー、あなたは天女のようだ」と言っていたこともあるので、使用法は一概には特定できないようだ。
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原田九段は将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。
2001年までは阿佐ヶ谷の原田九段邸で、将棋ペンクラブ新年会、将棋ペンクラブ大賞最終選考会が行われていた。
私が将棋ペンクラブ幹事見習いになったのが1996年12月なので、新年会と最終選考会で合計10回、原田九段邸へ伺ったことになる。
原田九段のお話を身近で聞くことができたのは、私にとっての宝の一つになっている。