阪田三吉八段(当時)の阪田流向飛車△5四角の真実

将棋マガジン1984年2月号、内藤國雄九段の「阪田流向飛車」より。

 △3三金から△2二飛と構えるのが阪田流向飛車の特徴ですが、このあと△3二金と引くのが家元・阪田三吉の好んで指した手。そして△3三桂から△2一飛と引きます。(1図)

 △3二金と引くところではもう一つの指し方△2四歩▲同歩△同金とする攻撃型もあり。むしろこの方に後世は重点がおかれるのですが、阪田王将には金引きから持久戦に持ち込む方が、その棋風にあっていたのでしょう。

 一見手損で抵抗を感じる向きもあるでしょうが、△3三桂そして将来△7三桂と両桂が働けば充分という大局観に立っていて、中盤以降の戦いに重点を置いているのです。

 1図は後手形も美しく、指し方も覚えやすくシンプルといっていいでしょう。

 急戦を得意とする相手には適した戦法で、現代でも充分通用できると思います。

 ところで先月来、この対局の両者(先手土居市太郎八段、後手阪田三吉八段、いずれも当時)の感想を調べてみました。

 1図では既に後手が指しやすいというのが大方の意見ですが、そうなった原因は▲6六銀にあるというのが先手の感想です。

 ▲6六銀△2一飛となったのが1図ですが、▲6六銀で▲7五歩と突き、▲7六銀と進むようにします。以下理想形に組み上げたのが想定図、参考1図です。

 もしこうなれば▲8九飛と廻る手もあり、先手充分といえるでしょう。

 阪田王将は1図となってからでも▲7五歩と突かれるのが嫌だったと述べています。

 したがって、後手としてはもっと早く△7四歩~△6四歩と位を張っておくべきだったと。

 そして1図から2図へと進みます(指し手は先月号に掲載)。

 △5四角が将来問題を引き起こす有名な角打ち。

 本局の対戦は5日間に及んだといいますから、さぞかしこの△5四角には時間がかかったと思いますが、そのいきさつについては阪田王将自身の感想があります。

「△5四角は次の敵の攻撃に備えたものである。即ち△5四角とせず(例えば△8四歩と突けば)▲2四歩△同歩▲2二歩△同飛▲3一角△3二飛▲4二角成△同飛▲2四飛△2二歩▲2五桂△同桂▲3三金(参考2図)」

 王様が裸であるだけにこのように強引に来られて苦しくなります。

 しかし参考2図でもし△5四角と打ってあれば△6二飛と逃げて後手は大丈夫、以下▲2二飛成も△同飛▲同金となって、これは後手良し。

 しかし△5四角には別の一面、5五を攻められると死ぬという致命的な弱点がひそんでいました。

 △5四角を見て土居八段は有り難いと感じたそうで、指した当の阪田自身やはり疑問に思ったとはっきりいっています。

 そして△5四角の手では、まず△8四歩▲8六歩と突き合った形にして△5三角(参考3図)と打つべきであったといいます。

 これだと角が死ぬ心配はなく、△7五歩以下7~8筋の攻撃に角が鋭くきくことになります。また△5三角は▲2四歩から▲2二歩という先手の攻撃の筋をも防いでいます。

 さて2図以下角の頓死局面まで進めてみましょう。

再掲2図以下の指し手
▲5七金右△8四歩▲2六飛△5二金▲5八銀△7五歩▲同歩△同銀▲5六歩△同歩▲同金(3図)

 ▲5七金右は力強い手。そして▲2六飛から▲5八銀と構えているところへ△7五歩。

 これが問題を引き起こした手。おそらく次の▲5六歩△同歩▲同金の筋をうっかりしたのだろうといわれていますが、私はそうではなく3図以降で錯覚するところがあったのだろうと思います。

 肝心の、この箇所での対局者の感想がいくら資料を調べても見当たりません。

3図以下の指し手
△7六歩▲8六銀△同銀▲同歩△8五歩▲5五歩(4図)

 △7六歩に▲8六銀が意表を突く好手。これをおとなしく▲8八銀と引いたのでは△6四金▲5五歩△6三角となって後手充分の棋勢でおさまってしまいます。

 ▲8六銀の反発をくってからは後手どうしてもいけません。銀交換後△6四金と立つ手も▲5五銀と合わされてやはり角は助かりません。まだ3図の局面で△7六歩と打たず△7四金と立てば角は助かっていました。本譜よりその方がやはり良かったでしょう。

 しかし銀交換後、後手が堂々と△8五歩と突き▲5五歩を許します。

 この△8五歩のところでは先手の感想は△3五歩と突かれる方が嫌だったとあります。

 以下▲4五歩なら△4八銀。これで▲5五歩なら△3七銀不成▲2七飛△4五角と角を捌き、▲同金△同桂となれば相当な勝負となります。

 しかし角を歩の餌食にして堂々と指す本譜の順には、王将独特の風格が感じられます。

  4図の後は、△8六歩▲5四歩△8一飛▲8八歩△5四銀と進んでいくのですが、先手に受け損じがあって後手の勝利に終わります。

 4図の棋勢は、あるいは見かけほどには離れていなかったと見るべきかもしれません。

(中略)

 この△3三金~△2二飛型の向飛車は、本当に阪田三吉が創始者であるかどうかということについては早くから論議を呼んでいました。

 実は江戸時代にこの型の実戦譜が見つかっており、そういう点からは創始者とはいえないということになります。

 しかしこの戦法に新しい生命を吹きこみ、重みを与え、流行の基をつくった阪田三吉の名を冠しても異議をとなえる人はいないと思います。

(以下略)

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この土居市太郎八段-阪田三吉八段戦は、大正8年5月、木見金次郎七段昇段祝賀会での席上対局として行われたものだった。

祝賀会の席上対局を何日もかけてやるところが大正時代らしいところだが、この一局だけで、阪田流向飛車という戦法名が生まれた。(阪田三吉名人・王将が阪田流向飛車を指したのはこの対局だけ)

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後に只で取られる△5四角(2図)を初めて見たのは私が中学生の時だった。

手の意味や狙いがわからなかったけれども、いかにも阪田流で、神秘的に思えたものだった。

また、△5四角について、「それは勝負を飛び越えた心。最後を争わぬ心の奥底から投げだされた角だ…」と阪田名人・王将自身が語ったという話もあり、神秘性はますます増していくのだった。

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しかし、内藤國雄九段が調べた「△5四角は次の敵の攻撃に備えたものである。即ち△5四角とせず(例えば△8四歩と突けば)▲2四歩△同歩▲2二歩△同飛▲3一角△3二飛▲4二角成△同飛▲2四飛△2二歩▲2五桂△同桂▲3三金(参考2図)」という阪田名人・王将の感想を見ると、△5四角はそれほど神秘的な手ではなかったことが判明する。

深遠で神秘的に見えていたものが、実際にはそうでもないということが、世の中にはいくつもあるのかもしれない。

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ところが、昨日の朝日杯将棋オープン戦決勝、藤井聡太五段-広瀬章人八段戦で藤井聡太五段が打った▲6七角(A図)は驚いた。

▲6七角の直接的な狙いがわからなかったのだが、持ち時間の短い将棋でこのような手が考えられることに驚いた。

漢方薬のようにじわじわと効いてくる角になるわけで、普通なら思いつかない手だと思う。

そういう意味でも藤井聡太五段の▲6七角は、正真正銘、神秘的な手だと思う。