升田幸三九段の名芝居

将棋マガジン1985年1月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 久し振りに升田九段の対局を見ることができた。

「日刊ゲンダイ」紙で升田九段と武宮九段の碁の対局が企画され、その観戦記を私が担当したからである。

 その企画が決まって、ゲンダイの大石記者がヒゲの先生に都合を伺うと「喜んで打ちましょう」という返事。では、相手は誰がよろしいでしょう、と聞いたら「最近米長君が武宮九段と打って負けたようだが、今度はわしが武宮君と打って腕のちがうところを見せてやろうか」といった。

 というのはもちろん私の作り話で、本当は武宮-米長戦のことは知らなかったらしいが、もし知っていれば、似たようなことを云ったのではないかと思う。

 とにかく碁に関しては、諸先生方はうるさいのである。だから真部が「将棋界の囲碁番付を書いて下さいよ」といくらいっても、横綱は、河口と真部とは書けない。将棋棋士でだれがいちばん強いのですか、とうんざりするほど訊かれるが、その時は、花村、升田、大山、丸田、佐藤(庄)、米長、真部、河口、とずらっと挙げて、みんな似たようなものです、と云えば満点の答えである。他にれっきとしたプロ三段の北村(文)がいるが、だれも打ったことがないので実力のほどは判らない。

(中略)

 対局当日、日本棋院へ行くとすでにヒゲの九段は夫人につきそわれて見えていたが、どうも様子が普通でない。腰がまがり、足もとはおぼつかなく、カスレた声で「坐ることはできんから、椅子で打たしてくれんか」とうったえた。すぐ手配して応接室に対局場をセットしたが、いったいこれで碁が打てるか、と心細くなってきた。武宮九段にしたって、話に聞いていた豪放磊落なイメージとあまりにちがうのでびっくりしただろう。

 そうして対局が始まった が、石を打つにも往年の大上段に振りかぶってピシリと打つ感じはなく、ぽとりと落すのである。そしてお得意の口三味線も出ない。しかし碁そのものはしっかりしていて、序盤、中盤を大過なく打ち進め、終盤になって気がついて見ると、なんとヒゲの先生が勝ちそうである。武宮九段もアレッという顔で、勝負手を放った。

 とたんにヒゲの先生は、ジロリと武宮九段を見て「本気を出しよった」と呟き「年を取ると手洗いが近くなって」などいいながら出て行った。のこった武宮九段は「驚いたねえ、三目か四目負けそうだ。でもこの応手は難しいですよ」

 やがて戻って来て打った黒の次の一手は大正解の妙手。難関を乗り切って生涯の会心作が出来上がった。

 終わった時、私をふくめて観戦者一同、驚き半分、感心半分でした。まさか三子で勝つとは思わなかった。それにしても、勝負所と見るやさっと手洗いに立ったあたりは、昔とったきねづか、というものですな。そういえば、あの時の後姿は腰がしゃんと伸びて堂々としていたっけ。と思ったとたん、私はあることに思いあたったのである。

 昭和32年頃からのおよそ2年間は、将棋史におけるルネッサンス期ともいうべき輝ける時代だった。それは人間的な升田将棋が、精密機械と云われた大山将棋を叩きのめした時代でもあったが、その勝ちまくっていた頃のヒゲの先生の仕種が、この日と同じだった。弱々しげに咳をし、口をついて出るのは、「体がいかれてしもうている」という弱音ばかり。そして対局中、しばしば横になったりもした。まるで勝つ気などなさそうに見えたが、実はそうでなく、夜中まで頑張り、必敗の将棋も逆転して見せたのだった。

 つまり武宮九段との対局の時もその手を使ったわけだ。名演技衰えずだが、それは別にしても、若い頃に鍛えた脳のスタミナもまた容易に衰えないのを教えられた。

 終わってからしばらく手直しを受け、それから階下の食堂でお祝いをしましょうということになったが、ヒゲの先生の喜びようたるや大変なものだった。ありがとうと何回頭をさげたことか。エレベータに乗ると「あれは上手が緩めてくれたのか?」と訊いた。真部と土佐が「そんなことはないでしょう。見事なものでしたよ」とソツなく答えると、また実に嬉しそうに笑ったのである。後日武宮九段にその有様を伝えると、「それはよかった。寿命がだいぶ延びたんじゃないですか。私もいいことをしたような気がしますね」

 ところで、この日対局後の歓談でちょっと興味ある話が聞けた。

「升田先生の碁は、偉大なる自己流ですね。実利実利で二線を這い回り、眼は三つ持つ。子供の頃先生を見て、将棋は芸術的ともいえる形のよさを誇るのに、なんで碁は、こんなに筋悪なのか、と思いましたよ」

 私がそんなことをいうと「わしは本来固い性格なんだ。若い頃の将棋も固くて固くてどうしようもなかった。それが戦争に行ってガラリと変わってしまった」

 ライバルの大名人も同じことをいうかもしれない。人間の形成期に修羅場を経験するかしないかで、以後の人生がどのように変わるものか。たとえば将棋にどのような影響を与えるか。そうした経験のない、中原や谷川の将棋と、どこかちがいがあるのではなかろうか。これは考えてみる値打ちがありそうである。

(以下略)

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真部一男九段も升田幸三実力制第四代名人の囲碁を評して、「夢のカケラもない手堅すぎる棋風」と書いていたが、要は将棋の棋風とは正反対だったということ。

大山康晴十五世名人の麻雀も、いかに早く上がるかが最優先で、高い点数の手を狙うなどの手作りのロマンは全くなく、すぐにポンやチーをして点数が低くとも早く上がる雀風だった。

升田・大山の趣味(それぞれ囲碁・麻雀)の世界は、面白みのない超現実的な棋風・雀風だったということになる。

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晩年の佐藤大五郎九段は、対局が始まる前、わざと座る席を間違え(違う対局相手の前に座る)、「あの先生、少しボケたかな」と思わせておいて、それで相手を油断させるという盤外戦術をとったと言われている。

相手を油断させる方向性の盤外戦術の世界は奥が深そうだ。