将棋マガジン1984年7月号、内藤國雄九段の「阪田流向飛車」より。
”敵を知り、己を知らば百戦たたかって即ち危うからず”
あまりにも有名な孫子の言葉。
名調子です。これを聞いた時思わず「これで勝負の真髄が分かった」と叫びたくなったものです。
しかし考えてみると、これはいわば当たり前のことをうまく表現しただけのことなんですね。別にこういったからといって、孫子をけなしているのではありません。
言葉そのものの性格というか限度というものを私は考えているのです。
もし仮に私が世界の名著とされる兵法書を読み漁ったとしても、勝負がそれによって少しでも強くなるという事はないと思います。そういった読書が全く無駄だというのではありませんが、それがすぐに実戦に役立つとは考えない方がよいといいたいのです。
これは人から聞いた話ですが――
ゴルフのライバルを負かすために、プレイをする前日にこれは素晴らしい本だといってライバルに贈るのが手だとのこと。
当日ライバルは読んだばかりの本の言葉を一杯頭につめこんでプレイにのぞむことになります。そうすると必ずこれまでのペースが乱れてスコアがガタガタになる――というわけ。
泳ぎ方や自転車の乗り方一つにしても然り、最も単純な歩き方でも、次に右足、次は左足と言葉がうるさく出張ってくると動作がぎくしゃくしてうまくいかなくなってしまうものです。人間の脳は右半分と左半分がそれぞれ機能を分担して働いているという事が詳しく分かりかけています。
その見方からすると右の脳の領域に左の脳(言葉を司る)が顔出しするのは感心しないということになります。
将棋の格言、それはいわば将棋経験のエッセンスというわけですが、やはり言葉ですからその辺の限度は心得ておかないとかえってマイナスになることがあります。
”相場は相場に聞け”とその筋でいいますが、こちらはやはり”将棋は将棋に聞け”でなければなりません。
(以下略)
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例えば、孫子の兵法には
「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
というものがある。
戦えば、勝ったとしても自軍の兵にも大きな損害が出る。また、敵の多くの兵を殺しても、後にその地の人達には敵愾心が残り、得策ではない。兵糧攻め、水攻め、謀略などにより物理的な戦いをせずに勝つのが最良の道というようなこと。
これは豊臣秀吉の参謀だった黒田官兵衛が実践して多大な効果があった戦略だ。
しかし、これは将棋をはじめとする勝負事、スポーツなどには全く適用できない。
やや近い例があったとすれば、賭け将棋や賭け碁で勝っても、得たお金の3割を負けた相手に戻していた若い時代の故・花村元司九段。
これならば、感情的な恨みを買わず、また、相手も次も対戦してみようかなと考えてくれる。
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最後の真剣師・大田学さんは、非常に紳士的な、とても品のある方だった。企業の温厚な役員が普段着を着ている、と言われても不思議ではない雰囲気だった。
小池重明さんには会ったことはないが、やはり愛嬌がある人だったと聞く。
真剣師の場合、相手を滅茶苦茶負かすだけだと、恨みだけが残って、次にその相手は対局をしてくれなくなる。
真剣師からすれば自分より弱い人は顧客、その顧客を失わないためにも、営業的なセンスが必要とされていた。
孫子の兵法は、相手をやっつけるものではなく、自分の身を守るために必要なことが書かれているのかもしれない。
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それにしても、「右の脳の領域に左の脳が顔出しするのは感心しない」は非常に説得力がある。