将棋世界2003年8月号、河口俊彦七段(当時)の「対局日誌」より。
いよいよ順位戦が始まる。
その初戦が藤井九段対鈴木(大)八段戦である。この組み合わせがにくい。
私が将棋界に入って50年になるが、その間最も衝撃を受けた事件といえば、中村修の出現だった。何を考えているかさっぱりわからず、なぜこんな将棋が勝てるんだろうと思った。技術面でいえば、将棋に産業革命みたいな事が起こったのである。
驚かされた事は、他にいくつもある。藤井猛が突然竜王戦の挑戦者になり、谷川浩司に4連勝したときもたまげた。
ただ、タイトルを取っても、それだけでは信用してもらえないのがこの世界で、2期目に鈴木大介を退けて、どうやら本物らしいと認められた。らしいとついたのは、相手に恵まれた面もある、と仲間達は見たからである。
そして3期目、羽生善治と大激戦の末降し、文句なしの竜王となった。トップクラスとしての実績を作ったのである。
そんなことがあって数年、鈴木大介は八段に昇り、順位戦という特別なところで対戦することになった。藤井九段との差が詰まったか、以前のままかがわかる絶好の機会だ。
そんな因縁の他に、振り飛車党同士の対戦、という見方もある。
藤井九段は田中(寅)九段と並ぶ序盤巧者。そんな特徴は序盤早々にあらわれた。
1図は先手が右銀を早く繰り出して急戦狙いのごとくだが、そうではない。玉の囲いの根本を作ったのである。矢倉戦法でいえば、▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀という手順があり、1図の▲3七銀は、矢倉囲いの▲7七銀と同じような手である。
後の駒組手順から察するに、藤井九段は研究してきたと思われる。その成果は駒組が出来上がったころにはっきりし、片矢倉に組んだ着想に、鈴木八段は「思いもつかなかった」と感嘆した。
事情は2図でわかるが、3七の銀を中心に駒組を作るとすれば、矢倉囲いが普通で、▲2八玉、▲3八金の形になる。それを藤井九段は▲3八玉、▲4八金の片矢倉にした。それがうまい、というわけ。プロならではの感想である。
(中略)
夕食休みのころになると、藤井対鈴木戦が大きく動き、おもしろくなってきた。2図となっては先手が困っているように見える。飛車の逃げ場がないから。しかし、こういう危なく見える局面は、実はさばきやすいもので、心配はない。
2図以下の指し手
▲6五桂△6四金▲4四角△同飛▲7三歩△同桂▲同桂成△同玉(3図)軽く▲6五桂が狙い筋。後手は金を取られてはかなわないから△6四金と逃げるが、角交換から▲7三歩と打って、攻めの形になっている。
これに対し、鈴木八段は△7三同桂と応じたが、△8六銀と飛車を取りたかったらしい。局後の感想戦でそれを言うと、藤井九段は「考えてもそうは指さないよ。桂で取ると思ったね」。
鈴木八段は「△7三同玉と取った形が厚いからな」と自分を納得させたが、後日になっても「飛車を取りたかったな」と未練がましく言っていた。
ともあれ、3図となり、▲8九飛△4六歩という展開になったが、急所に手をつけて後手やや有利、が控え室の評判だった。
(以下略)
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2図からの▲6五桂がドキドキするような一手。振り飛車の醍醐味を表現しているような手だ。
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「考えてもそうは指さないよ。桂で取ると思ったね」は、プロの第一感ということなのだろう。プロ棋士の体に埋め込まれているDNAがそのように言っている、というような雰囲気。
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この一局は鈴木大介八段(当時)が勝っている。
だから逆に「飛車を取りたかったな」と後になっても言っていたのだと思う。
敗局だったら、悔やまれすぎて言及したくないような気持ちになるのではないだろうか。
しかし、明るく開放的なキャラクターの鈴木大介九段なので、勝っても負けても「飛車を取りたかったな」と言っていたとも考えられる。
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この「対局日誌」のページの鈴木大介八段の写真で、「A級に上がって棋譜を全部載せたかった(鈴木)」とキャプションが付いている。
たしかに、A級になると全局、観戦記が新聞に掲載される。
A級とB級1組以下の、意外と気がつきにくい差がある部分だ。