将棋マガジン1987年9月号、福本和生さんの「棋聖戦盤側18年」より。
担当記者は対局者と同行するが、森雞二九段との同行記は原田流をまねると”涙また涙”であった。
第30期棋聖戦は大山棋聖に森八段(当時)の挑戦。このころ森は飛行機を拒否していた。鉄のかたまりが空中を飛ぶのはおかしい、というわかったようでわからない理論。皮肉なことに対局場が八戸市と出雲市である。東京から飛行機を使えば簡単だが、森は「陸路を行きましょう」。森と私は上野駅から特急列車に乗った。車中では持参の磁石盤で碁を打っていたが八戸までは長かった。途中で食堂車へ行ったが、列車の横揺れが激しく、食器が卓上をウロウロするので食べるのに一汗かいた。ようやく八戸に到着、車で対局場へ行くと、すでに歓迎会が始まっている。森は会場入り口近くでトイレに入ったので、私はそのまま会場へ入っていった。とたんに高い拍手が巻き起こった。どうやら私を森と間違えたらしい。”違いますよ”の意味であわてて大きく手を振ったら、会場の方はそれを感謝のポーズと受け取ったらしく、拍手はさらに高まる。汗がどっと吹きだした。このあと森が姿を現したが、心なしか拍手の音は弱まっていた。
出雲市へは新幹線で岡山へ出て、そこから伯備線というコース。本州を横断する伯備線の情趣ある日本美は今も目に焼きついている。長い道中であったがちっとも退屈しなかった。これは森に感謝である。
そのあと第40期棋聖戦では、森と函館まで列車と船で出かけた。青函連絡船のグリーンに乗ったらお客は森と私の二人だけであった。
(以下略)
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青函連絡船は1988年に廃止されている。
青森から函館まで3時間50分。
廃止時の普通運賃は2,000円。グリーン座席指定が1,600円。
津軽海峡・冬景色。
恋の破局→上野発の夜行列車→連絡船だから情感がこもる。
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逆に飛行機が好きな人は、着陸時に一抹の寂しさを感じてしまうほど。
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第30期棋聖戦は1977年。森雞二九段の剃髪の名人戦は翌年の1978年なので、全国的にはまだあまり森雞二八段(当時)の顔が知られていなかった時期だったのだろう。
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いつも思うことだが、例えば源義経と源頼朝が初めて対面した1180年の黄瀬川の陣。
当然のことながら当時は事前に出回っている写真もなく、戸籍謄本のようなものもなく、頼朝はどうやって義経が本物の弟だと判断できたのだろうか。