林葉直子女流名人(当時)「奨励会旅行に参加して」

近代将棋1986年1月号、林葉直子女流名人(当時)の「奨励会旅行に参加して」より。

「皆さん、このバスには、カラオケも用意してあります。どうですか、皆さんで一曲ずつ歌っていただけませんでしょうか」。

 しーん。シラー。誰一人としてバスガイドさんの方を見る者はいません。持参のウォークマンに聴き入っている者、アイドルタレントの写真集に見入っている者、詰将棋誌をにらみつけている者、窓に額をくっつけ、外の景色を見ている者等々…。皆んな思い思いの格好をしています。

 私たちは午前8時、将棋会館前から、2台のバスに分乗して、出発しました。総勢63名。1号車が有段者、2号車が級位者、概ねそんな分け方だったように思います。

 今日の私はレポーター役。私の大の仲良しで、奨励会の紅一点、中井広恵ちゃんとルンルン気分で2号車へ。私って車に乗ると、すぐ居眠りしてしまう癖があるので、今日は絶対そういうことのないようにしなくっちゃ!!なんといっても大役があるのだから……。

 さて、バスは目的地「静岡県千頭」めざして、快適に進みます。……が、奨励会員の方はというと、冒頭に申し上げたとおり。静かなものです。ガイドさんの必死の呼びかけにも、馬耳東風。

 私は、バス会社も悪いと思います。バスガイドさんがちょっとお年を召しすぎているのです。20歳前後できれいなガイドさんを派遣して下されば、きっと奨励会員たちの目の色も変わったと思いますが。

 見かねた幹事の松浦先生が、音頭をとってやっと車内カラオケスタートです。一変して車内が、若者の集まり!?という雰囲気になりました。歌っていいもんですね。

 バスは金谷というところでストップ。ここからは電車です。電車は、田圃と畑ばかりののどかな田園風景の中を走ります。奨励会員はというと、車窓をながめて旅情をしのぶなんて風雅なひとは一人もいず、あちらの席、こちらの席でトランプゲームの花盛り。

 午後5時千頭駅着。古びた小っぽけな駅を出ると、外は、さびれた店が2、3軒見えるだけで、駅前にはタクシーの一台も駐車していないのです。ここは、一体何で有名なのかな?

 駅から徒歩でぞろぞろと、寅さんが好んで泊まりそうな和風旅館へ直行。旅館に着くと、夕食が6時半ということなので、それまでやろうとトランプゲーム。

 午後6時半、夕食兼宴会。ここでは、カラオケ大会で盛り上がりました。歌のうまさも、将棋でいえば、有段者から六枚落クラスまで様々で皆んなの感心の的になったり、爆笑を巻き起こしたりで、楽しいひとときでした。

 翌日は朝食後、午前11時半まで全員で早指し(10分切れ負け)将棋。これでやっと、彼らがさすらいのトランプギャンブラーではなく、奨励会員であることが証明されました。

 将棋が終わると、すぐさま旅館にさよならして、再び、千頭の駅へ。

 帰途、私たちの電車は、モクモクと白い煙を吐いて、いかにも大儀そうに線路の上をのし歩くといった感じの、SL列車とすれ違ったのです。これは印象的でした。居眠りをしていた者も、トランプをしていた者も、雑誌を読んでいた者も、全員、このSLの勇壮な姿には、見とれているようでした。

 その後は、何事もなく、来たときと同じコースを同じ電車とバスで、無事将棋会館まで帰りついたのです。

 でも、この旅行、一体何だったんでしょうね。カラオケとトランプをしながら会館と旅館を往復しただけという感じ。ちなみに「明解国語辞典(三省堂版)」で調べてみると、「旅」=自宅を離れて一時よそへ行くこと…だって。ああ、それじゃ、私たちもりっぱに「旅」してきたわけですね……。

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羽生善治九段が四段に昇段する少し前のタイミングの奨励会旅行。奨励会時代の羽生世代棋士が参加している旅行。

これだけのことをやるのに、わざわざ静岡県まで行く必要があるのか、近場の神奈川県・鶴巻温泉、あるいは東京・麻布十番温泉でも良いのではないか、と思えてくるが、やはり旅は旅。

遠くまで来たという旅情が思い出として残ることもある。

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奨励会員がたくさん集まった時の独特な雰囲気が見事に描かれている。

身内とは言え、17歳の女性のクールな視点で書かれたこの文章が妙に面白い。

「林葉直子女流名人(当時)「奨励会旅行に参加して」」への2件のフィードバック

  1. 面白い記事の掲載、ありがとうございます

    バス会社も仮に若いバスガイドさんにすれば、と冷静に書いてる本人が17歳ですから、実年齢に対して精神年齢が大人ですね

    しかも、林葉さんたち自身が人気者だったのか、それとも逆に冷たくされたのか、なんらかあったはずだが一切触れないのもやはり大人

    写真は、中井さんとともに実に可愛らしいですね!

    今はSNS全盛ですが、雑誌を買って読んでくれる人のために書かれたまとまった記事やエッセイというのは、やはりツイートなどでは得られない味わいがありますね

    1. halflanding 1 さん

      そうですね、意識はされているけれども表面上は無視され続けたような感じがします。
      この林葉さんの文章は、理由はわからないのですが、読んでいて心地良い気分になりますね。

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