将棋マガジン1990年1月号、「奥山紅樹の棋界人物捕物帖 二上達也会長の巻」より。
まずは、白く明るくピッカピカのお弟子さん、羽生六段のことから聞いちゃえ。CB(チャイルドブランド)と呼ばれる10代の大器続出を、どう見ますか?
「10代の人たちが、稽古先をさがして生計費をかせぎながらの研究ではなく、生活の心配をしないで、将棋に打ち込む時間がたっぷりとCBにある……そのあたりの環境の変化は、大きな要素ですねえ」
二上九段は、歯切れ良い口調で「CBを生み出した、社会の変化」を語りはじめた。
17歳でアマ名人戦北海道代表となり、18歳の年、いきなり突き出し二段で奨励会入り、その年に四段へ昇段したこの人。加藤一二三プロとならび、いわば1950年代のチャイルドブランド、その典型だった。
奨励会入りしてから、わずか6年でA級八段にかけ登ったという快挙は、加藤一二三元名人の「7年でA級八段」とならぶ大記録である。
だから、「CB、CB……新々人類」と浮かれる棋界ジャーナリズムの空騒ぎを横目に見ながら、「いつの時代でも、10代は強いんです」さらりと言ってのけることばに重みがある。
しかし、若き二上のころ。CBは「点」として存在してはいたが、いまのように「ムレをつくってかけ昇る」現象はなかった。
やはり、10代の「将棋漬け」のありようが、昔とはちがう?
「いまは、家族が小人数で、親の目が行き届いている。家庭の経済力・文化力もしっかりしている。棋士になる道を、親が応援してます」
「そういう環境で将棋に熱中する……羽生君に訊くと、テレビも見ない、マンガ雑誌も読まない。トイレに入るにも将棋の本を持って入る……これで強くならなきゃ、おかしい(笑)」
研究に打ち込める、めぐまれた環境にいながらCB棋士は一様にハングリーである。
「ハングリーの形が変わってきましたね。いい服を着る、いい車に乗る、海外に旅行をする。食うや食わずのハングリーではなく、何を食べるかの苦労でしょう(笑)」
しかし、ひとたび盤に向かうと、羽生プロはどん欲ですね?
「既定の読み筋に満足しない。一手ごとに腰を落とし『もっと良い手がないか』と探している……他の棋士の指した手をよくおぼえていますが、モノマネはしない。『それ以上の手はないか』と求めていますね」
そういうことは、師匠が教えたのですか?
「将棋に対する姿勢など、教えたことは一度もない。(CBは)皆……そんなもんだと思いますよ。教わったことしかやれないんじゃ、先人を乗り越えられない……この世界は」
今後の将棋界。谷川-羽生の死闘、その中から棋界を制覇する巨人が生まれますか。
「まあ……少し先を見なきゃいけないですけれど……(と口をにごすが、巨人が生まれると直観しますか?と重ねての問いに)ええ、ええ(強い調子で)そう」
(以下略)
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羽生善治六段(当時)が初のタイトル(竜王)を獲得する2~3ヵ月前のタイミングで行われたインタビュー。
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「既定の読み筋に満足しない。一手ごとに腰を落とし『もっと良い手がないか』と探している……他の棋士の指した手をよくおぼえていますが、モノマネはしない。『それ以上の手はないか』と求めていますね」
三つ子の魂百まで。まさに羽生善治九段の姿勢が現在に至るまで貫かれている。
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「教わったことしかやれないんじゃ、先人を乗り越えられない……この世界は」
はるか昔から将棋界で言われていること。
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「羽生君に訊くと、テレビも見ない、マンガ雑誌も読まない。トイレに入るにも将棋の本を持って入る……これで強くならなきゃ、おかしい(笑)」
羽生九段が子供の頃の話。これは、他のことを我慢して将棋に打ち込んだということではなく、とにかくそれほど将棋が大好きだったと考えられる。
大好きなことが一番の上達の妙薬、ということができるだろう。
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「今後の将棋界。谷川-羽生の死闘、その中から棋界を制覇する巨人が生まれますか」の質問に、師匠の二上達也九段の口から「生まれる」とはなかなか言いづらい。
なおかつ、二上九段は棋界一の温厚な紳士で、この当時の日本将棋連盟会長。このようなことには滅多に言及しない。
それにもかかわらず、最後には「ええ」と認めているわけで、羽生六段のインパクトがいかに凄かったかがわかる。