将棋マガジン1987年2月号、木村義雄十四世名人追悼「木村名人の想い出」より。
大山康晴十五世名人
一番最初に教えていただいたのは昭和17年、私が五段の時でした。
中部日本新聞社の主催で、三重県の湯ノ山温泉で対戦しました。手合いは香落ち。
その頃の木村名人は、八段陣を相手にしても、香落ちで負けなかったのですから、「負けて元々」の気持ちで、全力でぶつかっていったのを覚えています。それが幸いしたものか、何とか勝たせていただきましたが、「さすがに強い!」というのが、正直な感想でした。「木村名人は、”無敵”ということで、相撲の双葉山と並び称された人でしたが、私達は、そんな名人を目標に、「打倒、木村」を合い言葉として、修業に励んだものです。
昭和27年、私は初の名人位に就くことができましたが、その折、木村名人が「良き後継者を得て、―」と言われたことは、今でもよく覚えています。と同時に、勝負師としての潔さ、立派さには、大変感服しました。今の人達の、物の見方や考え方とは、ちょっとスケールが違っていたように思います。
現役を引退されてからも、将棋の普及、棋界の発展には、大変な尽力をされ、その方面においても、偉大な足跡を残されました。今日の棋界隆盛は、全て木村名人の功績といっても過言ではないでしょう。
今後、私達棋士は、より一層、棋界発展のために、頑張らなければならないと、肝に銘じたいと思っています。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
升田幸三九段
十四世名人木村義雄の訃報にあい、常勝木村を打ち倒さんと気魄を露わにして対峙した幾多の勝負が思い起こされる。七段の時の朝日将棋番付戦での優勝決定戦。名人戦、王将戦などの大舞台での対戦。盤の向こうには、常勝将軍の名人木村がいた。
木村さんの言動を思い起こしてみると、人間として、棋士として、いかに木村さんが一級品であったかが分かる。
名人時代、連盟の理事会が「これは将棋界のためになることです」「これは将棋界のためにやるんです」と言えば、木村さんは、必らず「ようがしょ」と言って引き受けたという。絶対の力を、将棋界の隆盛のために向けたのである。
退き際もまた見事であった。木村さんは、名人復位を果たした後、その名人位を失ったのを潮に引退された。そこに、一時代を築いた勝負師としての誇りと意地を見ると共に、木村さんの名人位というものに対する思いを感じさせられる。
立派な態度だったと言う他はない。
二上達也九段
木村名人に教えて頂いたのは、わずか二局。その時は、すでに引退されていたのですが、大変な圧力を感じました。
静岡新聞のお好み対局をいいつかって、名人と指したことがあります。その時の記録係が大内九段だったのですが、名人が大内さんに向かって「君のお師匠さんは?」と尋ねられました。
「土居先生です」と大内さんは答えたのですが、「土居先生といういい方はないよ、土居ですといいたまえ」とおしかりになったのが、妙に強烈な印象として残っています。
その後、名人戦の大盤解説をご一緒させて頂いたことがありました。名人はテンプラが好物で、解説会終了後、天プラ屋に案内して頂きました。そういった食べ物が、そんなにはなかった時代でした。
その天プラ屋で、私に対してバカに丁寧に名人があいさつされるのでとまどった憶えがあります。
あとで考えたら、どうやら私を朝日新聞の社員と勘違いされていたようです。
糖尿病を患われ、長い闘病生活が続き、幾分回復された頃、6,7年前でしょうか、岡山にご一緒させて頂いたことがありました。
松茸狩りです。
新幹線の中でお会いしたのですが、その時、名人は奥様と手をつながれていて、ご挨拶したら、ひどく恥ずかしそうな顔をされて、
「手をつないでもらうと、非常に体調がいいのだよ」とおっしゃいました。
若い頃はその方面でも名を馳せ、奥様も随分とご苦労なさったと聞きます。しかし、奥様の手を握った木村名人は、今はこいつだけだと言っているように見え、そして奥様も照れながらも非常に嬉しそうでした。
その時は名人をおのせしたカゴをかつぎました。
現在の棋士の中で、最も功績のあった方と思います。対外的に派手すぎる活動で、内部的に孤立したこともあったようですが、それもすべて過去のこと。
今は感謝の念にたえません。
晩年は好々爺然としていましたが独特の風格というものは、おのずとついてまわっていました。
だいたいにおいて、若い者に対してはいつも、暖かいものを感じました。
木村義雄という名前は、将棋そのものを代表する名前だったと思っています。
中原誠名人
僕が将棋を覚えてちょっとした頃に、木村名人は引退されたわけですから、むろん公式に対局をしたことはなく、また、実際に対局されている姿を拝見したこともありませんが、二度はど、木村名人と盤を挟む機会に恵まれています。一度目は、昭和32年、僕が初めて上京した時です。ちょうど升田三冠王の祝賀会がありまして、その席上で、木村名人に飛車香落ちで指していただきました。
ニュース映画か何かの(僕の)取材用のためだったので、途中までで指し掛けに終わったのが、少し残念でしたけれど、とても光栄に思いました。
もう一回は、名古屋の中日ホールでだったと記憶していますが、将棋まつりの公開リレー将棋で、僕と木村名人が、最初の数手を指し進めた時です。
「将棋大観」という木村名人の名著がありますが、奨励会時代は、この本で香落ち定跡の基本を勉強しました。こうした面でも、木村名人はものすごい功績を残されたと言えるでしょう。
木村名人は、将棋界全体を、優しく、暖かく、見守っていてくださった、そんな気がしますね。
芹沢博文九段
人は、生まれた時に、死ぬ義務を負うというが、余りにも哀しい。
木村先生が亡くなったと聞いて、電話口でとり乱してしまった。
先生と初めてお会いしたのは、小学校六年生の時であった。二枚落ちで教えていただき、勝てた。次の日の新聞に「芹沢少年、木村名人を破る!」と出た。その頃は”無敵木村”と言われていた時代である。二枚落ちと書いてないから、世間は、とてつもない天才が現れたようだと、驚いたようである。
木村名人に教えていただき、勝てたことによって、私の進む道が、ごく自然に決まった。
十六歳の時、奨励会二段であった。カバン持ちをさせていただいていたので、旅の車中でいろいろな事を教わったが、ある時「先生、どうすれば将棋が強くなるでしょうか」と、きいたところ「お前はバカだなあ。酒が好きで、女が好きで、バクチが好きなら、最低でも八段になれる」と言われた。
こんな楽な話はないと、嬉しそうな顔をしたら、先生は、憐れむように見て、「三つやると、必然的に金が足りなくなる。金を稼ぐには、稼業を一生懸命やることだ」と言われた。
逆説的に教えてくれたようである。
どこの県へ行っても、知事が必ず迎えに出ていた。そして、知事の車は使い放題であった。今、そんな棋士がどこにいる。
芦田均日記の一巻に、先生は3回出てくる。そのひとつに、昭和22年、芦田均が厚生大臣をやめた時、菅原通済、永田雅一らが、大変だろうと金を持っていっている。1万円である。その中に木村名人も1万円持っていっている。
この一万円が、今、どのくらいになるのかは、定かには判らぬが、大金らしいことは判る。
自分をも含めて、将棋指しが金ばかり欲しがっているのと比べると、何という違いであろうか。
私も今、どこへ出ても、ビクともせん。
木村名人と電話で話をしていた時私の声が震えていたので、家人が、「何を怖がっているの」と言ったことがある。
盤寿のお祝いの時、特別に寄せていただき、先生の前で「おめでとうございます」と言っただけで、平蜘蛛 のように頭を下げっきりであった。
どうしてもそうなってしまうのである。
それほど、すごい人であった。優しい人であった。厳しい人であった。
そして今、将棋指しが、酒を飲んだり、唄を歌ったり、いいものを食ったり、暖かい家に住んでいられるのは、木村名人のお陰である。
もう、木村名人のような、大名人は、出ないであろう。
合掌
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木村義雄名人が名人戦で大山康晴八段(当時)に敗れた時に「良き後継者を得て」と言ったのは歴史的に有名な話。
ゴミハエ論争など、木村十四世名人に敵意を燃やし続けた升田幸三実力制第四代名人も、「人間として、棋士として、いかに木村さんが一級品であったかが分かる」など、本音では非常に高く評価していたことがわかる。
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「若い頃はその方面でも名を馳せ、奥様も随分とご苦労なさったと聞きます」
関根金次郎十三世名人がプレイボーイだったことは有名だが、が、木村十四世名人にもそのような傾向があったとは初めて知ること。
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「「土居先生です」と大内さんは答えたのですが、「土居先生といういい方はないよ、土居ですといいたまえ」とおしかりになったのが、妙に強烈な印象として残っています」
NHK将棋講座2012年5月号、小暮克洋さんの「棋士道~弟子と師匠の物語 大内延介九段」には、次のように書かれている。
少年期から鈴木大介八段の薫陶を受け、男気の強さと目ヂカラで知られる阿久津主税七段から、こんな話を聞いたことがある。
「奨励会初段のころ、大内先生にどなられて震え上がったことがありました。将棋会館の控え室に入ったら先生が休んでいたんですが、恐れ多い気持ちで、反射的に目をそらしてしまった。そうしたら『おい、なんであいさつしない。お前の師匠は誰だ』って、すごい剣幕でとがめられて。頭の中が真っ白になりつつも『あ、滝先生です』と声を振り絞ると、すかさず『はかもん!自分の師匠に”先生”なんて付けるやつがあるか!』―。いまの自分に少しでもマシなところがあるとすれば、そのときの強烈な体験のおかげです」
また大内門下の鈴木大介八段(当時)は、
「私が修行時代に受けた師匠からの指導は、思い出す限り4つでしょうか。①将棋会館に入ったら、誰にでもあいさつをしなさい。②何かの集まりでお茶を出すときには、まずお客さんに出してから棋士に出しなさい。あとは③自分の顔に泥をぬり、『君の師匠は誰だ?』と言われたら即退会。④人前で、僕のことを話すときは敬称を省きなさい―」
と語っている。
大内延介少年が木村-二上戦の記録係を務めた時の体験が、大内九段の中で大きく育っていったことがわかる。
仕事の場で、社外の人に自分が属している会社の人間の名前を言う時に敬称をつけない。というのと同じ感覚だ。
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「お前はバカだなあ。酒が好きで、女が好きで、バクチが好きなら、最低でも八段になれる」
すでに酒と女性と博打が好きな人に対しては大いなる励ましの言葉となるだろう。
最低でも八段になるために、これから酒と女性と博打を好きになろうとすると、決して良くないことが待ち受けていそうだ。