印象的な物語のような展開。
将棋マガジン1990年5月号、「ドキュメント’90 第48期順位戦最終局」より。
3月13日、C級2組順位戦最終日。この日、56人という大所帯の成績のすべてが決まり、来期の自分の位置が確定する。
棋士の大晦日にたとえられる順位戦最終日。いい正月を迎えられる可能性があるのは、上から中川、中田宏、屋敷、以上8勝1敗。井上、沼、神崎、以上7勝2敗。
イキのいい若手に混じって、40代の沼の健闘が異彩を放っている。
1敗の3人にしか自力はないが、井上と沼は順位が上まので、勝てば昇級の可能性は高い。順位の悪い神崎はよほど展開に恵まれないと難しいという状況。
午前10時開始。東京千駄ヶ谷の将棋会館の対局室は、C2順位戦一色。
モニターテレビに映る、特別対局室の最上座を、和服に威儀を正して占めているのが、佐瀬勇次八段。今期は9敗と、片目も開かない成績で既に降級点も決定している。
やる気なしでもおかしくないが、この最終戦の対屋敷戦には期するものがあった。これにピンときた人は相当な事情通。
昇級戦線に残っている沼は、佐瀬の弟子で娘婿。中川は孫弟子にあたるという関係を知れば、合点がいくと思う。屋敷に遺恨はないが、佐瀬一門の総帥としては、二人のライバルを倒して援護射撃をしたいところで、”ハイ、お通り下さい”とはいかないのだ。自力のない沼にとっては値千金だし、中川にとっては、負けて2敗となっても昇級の可能性が残っているだけに、この援護射撃が決まれば大いに助かる。
持ち時間6時間の順位戦は、陽が落ちて夜戦に入ってからが本格的な勝負だ。夕休過ぎになると、明かりに吸い寄せられる昆虫のように、記者室に人が集まって検討が始まる。
今年は例年に比べて、人の集まりが少ないように見える。1敗陣の中川、中田宏、屋敷の3人が手厚いので、波乱の目なしと思われているのかも?
井上-大野戦。大野の四間飛車に対して、井上は居飛車穴熊。これを見た大野も穴熊に入る。しかし開戦後、井上にさばかれて、大野圧倒的不利。自陣飛車を放って必死に防戦したが、好転のきざしがない。
井上は毎年好成績だが、いつもいいところで脱落している。昨年は最終局の昇級の一番、大ポカで敗れて涙をのんだ。プレッシャーに弱いタイプと見られていたが、今回の将棋は逆転の余地がないだろうというのが、記者室の診断。
70歳と18歳、現役最年長と最年少の対戦なのが、佐瀬-屋敷戦。佐瀬は序盤、積極的に動く。勝負所では1時間半の長考と、若手顔負けの奮闘ぶり。しかし、大器屋敷の強烈なパンチが炸裂して、形勢は芳しくない。それにもめげず、佐瀬は粘る。
息の抜けない好勝負を展開しているのが、中川-沼戦。
▲2六歩△3四歩▲7六歩△4四歩の出だしは、後手の沼がいわゆるウソ矢倉に誘導しようとしたもの。しかし、矢倉が好きでない中川は、すぐ▲2五歩△3三角と決める。
矢倉ができなくなった沼は飛車を振るのだが、今度は中川の居飛穴を牽制するために向かい飛車に。
昇級のかかった勝負とあって、いろいろな思惑がからんだ序盤だ。
結局、沼は△3二金型の向かい飛車作戦から、△4五歩(1図)と元気よく開戦した。
2図は夕休に入った局面で、△6六角成の王手に▲7七桂と受けたところ。
まだまだ難しいながらも、若干後手が指せているのでは、というのが検討陣の意見。
夕休後まもなく、「指しましたよ。ビックリしたなあ。△2五飛ですよ」と、既に対局が終わっている先崎四段が、指し手を伝えに記者室に入ってきた。
2図で△4四銀▲7五角成△同馬▲同歩△3八角と飛車をいじめたいというのが、普通の発想。もちろんこれも沼の読み筋で、以下▲2八飛△5六角成▲5七金△2七歩▲5六金△2八歩成▲6六角というような進行に嫌なところがあるので、やめて△2五飛のぶつけを選んだのだ。
ただ下手すると、△2五飛はいっぺんに負けにしかねない過激な手。
「△2五飛とは、ふるえてないね」
「いや。ふるえまいと意識しすぎて、じっとした手が指せない、逆ふるえがあるんだよ」
予想と違った展開に、記者室の検討も熱を帯びてきた。進行につれて、沼よしの声が出始めた。
有力検討陣の青野八段、羽生竜王も同意見なのだが、”私が指せば”という言外の意味が込められている?ので、まだまだ断定できない状況だ。
「沼さんがいいじゃないですか。勝ちですよ」と、対局が終わったばかりの小林宏五段が記者室に入るなり、きっぱりした口調で言った。
前期のC2最終局、8勝1敗という成績で、勝てば昇級だった沼の前に立ちはだかったのが、小林宏である。14年ぶりに巡ってきたチャンスを打ち砕かれた沼が再び、最終局で望みをかけて戦っている。これが小林にとって嬉しくて声援したかったに違いない。
「こんなチャンス二度とない」と言っていた沼が、続けて昇級に挑んでいる。しかも、いい将棋を指している。記者室のムードは次点バネの沼の肩を持つ声で占められた。
3図は、7六にいた馬を香で取った局面。
中川は馬を犠牲に、と金を作って後手玉に迫る。次の一手は当然▲5二と。この時の指し手が難しいと見えた。△同香は寄ってしまうし、手抜きで寄せ合うのは後手足りない。”逆転”かの声があがったが、落ち着いて△5二同金という手があった。▲7一銀と打たれるが、△9三玉と上がって、上部に金が頑張っているので、寄りがない。
実戦は△9三玉以下、▲2二竜△8六桂▲2五竜△7八桂成▲同金△7七香成▲同銀△9六桂。いよいよ寄せに入った。
寄せ手順がくまなく調べられる。間違えなければ寄せ切れるという結論が出た。沼にとって幸運なのは、中川が残り2分なのに対して、1時間近くも時間を残していること。
関西で行われている、中田宏-伊藤博戦の動向が気になるのだが、どうしても関西会館との連絡がとれない。ギャラリーのイライラも増す。
11時27分、井上勝ち。後はキャンセル待ちだ。
佐瀬-屋敷戦は、佐瀬が時間いっぱい使って頑張るが、形勢は絶望的。籠城して奮戦する老将を思わせる。
富岡六段が佐瀬側をもって、しつこく抵抗していたが、サジを投げてしまった。
11時49分、屋敷勝ち。昇級一番乗りである。必勝になっても、浮ついたところもなく、腰を落として寄せ切った。こういう点が大器と呼ばれる所以であろう。
0時6分、ヨレながらも沼がゴールイン。この時点で井上の昇級が決定。
音信不通だった関西会館と連絡がとれた。中田宏優勢だった将棋がもつれて、現在進行中。どちらが勝つか分からないという情報が入る
中川-沼戦と同じ頃、隣の桐谷-木下戦も終わった。中川-沼戦を取り囲んだ取材陣に、桐谷が他の結果を尋ねたのに対して、「屋敷、井上が決まり、後は中田宏か沼」と手短かの応答。
中田宏-伊藤博戦にすべてをゆだねることになった沼。次報が入るまでの時間、長い長い時間に感じられたに違いない。
感想戦の途中で、伊藤博勝ちの報が入った。沼の昇級決定だ。これを伝えても、「ええ!? 本当なの」をくり返し、信じられないといった顔の沼。電話で確認した旨を話しても「ガセネタじゃないの?」と顔のこわばりは消えない。
選挙の当確情報で、バンザイをした後に、当確が消えた例もあることだし、無理もないところか。また、昇級を逸した中川の無念さを思えば目の前で大喜びもできないのだ。
それでも、次第にこわばりもほぐれて、笑みが洩れる。信じられる頭の状態になったようだ。
前期の最終局の光景がオーバーラップしてきた。
将棋会館飛燕の間―全く同じ場所に沼は座っていた。背を丸め、口をとがらせ、泣き出しそうにも見える顔で感想戦をやっていた。
前には対照的にピンと背筋を伸ばした、小林宏がいた。そういえば、沼の隣には、今日と同じように桐谷がいた。その前に座っていたのは中川だ。中川は桐谷に勝って、新参加の順位戦で8勝目をあげたところだった。順位を上げて、来期こそはと夢をふくらませていたろう。
今年も何か同じような顔と場面だ。しかし、配役が違う。昨年脇役に甘んじた男がついに主役の座を射止めた。
今期は、井上、沼という、前期泣きを見た二人が上がった。一方では屋敷のようにノンストップで飛ばしていく者がいると思えば、沼のように15年ぶり、40歳で初のC級1組という珍しい例も起こる。
いろいろなドラマを秘めた勝負の一つ一つ。今期も560個の白黒の星が全部表に埋まった。
昇級した沼、屋敷に、日浦、先崎と加わって、数人でささやかな打ち上げをやるために外に出た。
うまそうにビールを飲み干し、バカッ話に興じていた沼だが、突然しんみりした口調で「2月末に亡くなったオヤジが、一昨晩、夢の中に出てきたんだ。励ましてくれているような気がしたよ。昨晩は出てこなかった。きっと眠れなくしては、と思ったんだろうね」。はっとして顔を見ると、目が潤んでいた。
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「佐瀬-屋敷戦は、佐瀬が時間いっぱい使って頑張るが、形勢は絶望的。籠城して奮戦する老将を思わせる」
弟子、孫弟子の援護射撃のために奮闘する和服姿の佐瀬勇次八段に、心打たれる。
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「有力検討陣の青野八段、羽生竜王も同意見なのだが、”私が指せば”という言外の意味が込められている?ので、まだまだ断定できない状況だ」
ハッとさせられる視点。
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「前期のC2最終局、8勝1敗という成績で、勝てば昇級だった沼の前に立ちはだかったのが、小林宏である。14年ぶりに巡ってきたチャンスを打ち砕かれた沼が再び、最終局で望みをかけて戦っている。これが小林にとって嬉しくて声援したかったに違いない」
昨日も登場した小林宏五段(当時)。今日も清々しい。
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「2月末に亡くなったオヤジが、一昨晩、夢の中に出てきたんだ。励ましてくれているような気がしたよ。昨晩は出てこなかった。きっと眠れなくしては、と思ったんだろうね」
苦労人の沼春雄七段。
佐瀬勇次名誉九段が亡くなって以降、沼春雄六段(当時)が木村一基三段(当時)の師匠代わりだった。
木村三段が三段リーグ最終戦に敗れて昇段を逃したとき、沼六段と飲みながら泣いている。